好きなテレビ番組はアド街ック天国とタモリ倶楽部です、森田、森田です。
今回は高野山に近い街道を巡ります。
橋本駅から南海高野線で一駅、紀伊清水駅で下車。ここは高野山へ向かう宿場町でした。
こちらが駅舎です。
駅前から道路を渡って少し行くと高野山へと向かう街道に出ます。
楠本家住宅の納屋は幕末の建築。接続している土蔵は明治の建築。どちらも登録有形文化財。
楠本家住宅主屋は明治の建築。登録有形文化財。
街道の景色。
ぽつぽつ古い家が残ります。
豊島家住宅主屋は1783年の建築で登録有形文化財。
こういう押しずしみたいなタイプがこのへんの名物です。
橋本駅に戻ってきました。世界遺産の建物ってあったかなという気がしますが、多分世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に該当する参詣道が市内を通っていることを言っているのだと思います。
マンルイをカタカナにするセンス、嫌いじゃないです。
駅前近くに紀ノ川が流れてます。川上船という船で50キロ先の和歌山にまで物を運びました。この船で、高野豆腐、みかん、吉野や高野の材木などいろいろ運ばれていったようです。
紀ノ川沿いに旧橋本本陣池永家住宅主屋が移築されてきています。1731以前の建築で登録有形文化財。年代が確定している町家としては和歌山県最古。個人的に重要文化財でもいいのではという気がしています。
表門と土蔵は江戸時代中期から後期にかけてのもので登録有形文化財。
応其寺(おうごじ)は木食応其の建てた寺です。秀吉と交渉して高野山焼き討ちをふせいだと言われてる人ですね。山門は1857年のもの。
1587年、紀ノ川に橋をかけて、それが橋本の由来になったと言われています。それ以前はこのへんは伊都郡古佐田村として出てくるようなので、比較的可能性は高い話のようです。実質的に木食応其によって橋本の街が成立したようなものです。
微妙に像が性格悪そうですが……。
小林家住宅主屋江戸時代の末の建築で登録有形文化財。
土蔵は明治のもので登録有形文化財。このあたり、本当に道が狭くて、木食応其の頃からほとんど変わってないのでは……という気がします。
火伏医院主屋は1721年の建築で登録有形文化財。
火伏医院病院棟は大正の建築で登録有形文化財。
みそや別館主屋は1884年の建築で登録有形文化財。
写真左の土蔵はみそや別館下蔵で1808年の建築。真ん中奥は多分上蔵で明治の建築。どちらも登録有形文化財。
二つの街道が交差します。
まさに街道が交差する証明書みたいな存在の道標。
橋本市のHPの内容によると、伊勢(大和)街道とは「和歌山城下京橋北詰を基点に紀の川に沿って東へ進み、船戸で紀の川をわたり、橋本、五條を経て高見峠を越えて伊勢の松阪に至る街道」とのことです。道時代はもともとあったと思いますが、整備されたのは紀州徳川氏が成立した近世以降のようです。
今でも、いせ わか山 の文字が読めますね。
たしかに街道。
妙楽寺鐘楼門は1759年の建築と推定されるもので、市指定文化財。こちらの寺は中世の記録では尼寺だったようです。現在はほぼ門以外は伽藍がないような状態ですが、歴史の古い寺です。
妙楽寺の道の真上にある愛宕神社。実質、妙楽寺と一体化していたと思われます。
日本聖公会橋本基督教会旧礼拝堂は明治の建築で登録有形文化財。どう見ても民家だろという話ですが、民家の建築を教会堂に転用したものです。
元浄泉寺塩市燈籠は1715年のもので市指定文化財。
こんな感じの橋本巡りでした。次回は高野口を巡ります。
行き方
橋本・紀伊清水へは一般には大阪から南海高野線を使用するが、今回は五條からJRで来た。