歯医者なんて嫌いだ!

けずり女

 ひっそりとした日陰の北校舎の一階に、スクールカウンセラーの桜林さんの部屋がある。空気みたいに軽いドアをあけると、お医者さんみたいなにおいがする。その奥に、桜林さんが小さく腰掛けている。
 私がここに来るのは三度目だ。
「あら、お久しぶり、浅野さん、あれから調子はどう?」
 にっこりと桜林さんは笑いかけてくれる。摩擦抵抗みたいなものが少しもない笑顔。やっぱり、こんな笑顔ができないとこういう職業にはつけないのだろうかと思うとちょっと悲しくなる。私にはこんな笑顔はできない。
「また、嫌なことを思い出してしまって……」
 言葉尻が濁る癖が抜けない。これのせいで、お父さんから「お前はぼそぼそ言っててよく聞き取れない」と言われてしまうのだ。でも、それはちょっと違うと思う。ぼそぼそとしか伝えられないことがこの世界にはあるはずなんだ。大きな声のあいさつが小さな声のあいさつより100%すぐれてるってことにはきっとならない。小さな声でしか伝えられない想いだって、きっと、きっとあるはずなんだ。
 そんなことをはっきりと伝えられたらいいけど、私にそんなことはできない。だから、桜林さんのところに来ているんだ。
 桜林さんは私の不安を見透かしたように、また笑いかけてくれる。言葉なんていらない。表情だけで私を落ち着かせてしまう。やっぱり、桜林さんはプロだ。プロってことは、こういう笑顔でお金を稼いで生きていけるってことだ。本当は桜林先生と呼びたいけど、そう呼ぶと先生は違うよと訂正する。自分は先生なんかじゃありません、と。
「じゃあ、そこに横になって。診てみるから」
 桜林さんに促されて、私は白い清潔なベッドに横になる。枕は少し固くて痛い。「少し目を閉じて」と言われる前に私は視界を閉ざしている。
 ふっと、額に桜林さんの甘い手が触れる。
「少し、悪くなってるね」という声とともに、じゅりじゅりじゅりという音が頭の遠いところで響く。「表面だけ磨くね。ちょっぴりしみるかもしれないけど」
 ほとんど動かせない頭で私は気持ちだけうなずく。
 桜林さんは『けずり女』なのだ。私たちの記憶のよくない部分をとってくれる。
 じゅりじゅりじゅり。
 何かがすり減ってなくなる音。でも、それは撫でられているようなものに近い。
 その音が突然ぴたりとやんだ。
「浅野さん、何かあった?」目をあけると、心配そうな桜林さんの顔があった。「磨いたくらいじゃダメなくらい、悪くなってるよ。何か引き金があったんじゃないかな?」
「友達とケンカしちゃったんです。でも、うまく謝れなくて」
 どうせ隠しごとなんてできないので、私はぺらぺらとしゃべってしまう。
「小島さんとケンカしたんです。ケンカっていうか、嫌な空気になっちゃったんです」
 文化祭の出店の書類のことで私は代表役の小島さんに聞きにいったんです。あ、書類を提出する役は私だったから。それで、これは合ってる? ここはこれでいいのかな? そうやっていくつも聞いたら急に小島さんが怒り出して。それくらいわかるでしょ、それだったら私が提出しても一緒じゃん、何のために書類係やってるの、そう言われたんです。でも、私はもしミスがあったら取り返しがつかないから、確認しないわけにはいかないって思ってて、それを確認するのが私の責任の取り方なんだって言ったんです。じゃあ、とても嫌な空気になっちゃって。小島さんの言いたいこともわかるんです。でも、私の言ってることもわかってほしくて、謝ってみたんだけど、なんだか気分が晴れないままで。
 こんな下手な説明なのに、一回一回うなずきながら桜林さんは聞いてくれる。
「ああ、そのせいかあ」
 うんうんと桜林さんは納得する。
「小島さんとのこと、削る?」
「それはいいです」私は怯え気味に首を振る。削る、という言葉のせいだ。「そこまでしちゃうとどんな記憶も消さないといけなくなっちゃいそうで」
「よし、じゃあ、昔のことだけ削ろうか。そうすればずいぶん楽になるよ」
「あの、どうしても削らないとダメでしょうか?」
「うん、悪くなりすぎてしまったところは取り除かないと、ほかのところも化膿してしまうの。ちょっとしたことで人の心って黒く染まってしまうものなの」
「削るってことは口ですよね?」
「そう。口がいちばん記憶に近いからね。ここから削らないと上手くいかないの。大丈夫だよ。すっきするからね」
 私が口をあけると、すっと歯医者さんの道具のようなものが歯に当たった。それからきゅいいんという音。不安になってきて、私は目をあける。また桜林さんと目があう。
「浅野さん、友達とケンカしちゃったことで、いろいろ思い出しちゃったんだね。昔の嫌なことをたくさん」
 そのとおり。小島さんとのケンカでよくないことがたくさんよみがえってしまった。先生に理不尽な怒られ方をされたときとか、自分のミスでないことで注意されてしまったときとか。
「やっぱり、悪いことが起きると昔の悪いことを思い出してしまうんですか?」
「あのね、嫌な気持ちはね、なくなったみたいに見えても、どろどろどろとペースト状になって、消えずに底のほうで残ったままでいるんだ。だから、そういうことが湧いて出ちゃって暗い気分になるんだ。だから、しっかりと昔の嫌な気持ちを削らないとね」
「え、それって長く削ります?」
「うん、少しだけ」
 きゅいいん、きゅいいんと繰り返すうちに歯の奥のほうがしみるような感じがした。
 辛くて私は目をつぶる。
「ごめんね。ちょっとしみるかもしれないけど、我慢して」
 ほかの器具も金属的な音をたてて口に入ってくる。手がいつのまにかこわばって固くなっている。口や耳を治療されるのって、どうしてこんなに恐ろしいのだろう。歯ブラシも耳かきも入れるっていうのに、とにかくお医者さんの道具は怖い。私はかたくかたく目をつぶる。
「やっぱり、浅野さんも怖いよね」
 ちょっとトーンの下がった桜林さんの声がした。
 目をあけると桜林さんは苦笑に近い顔をしていた。にぶい私でも、空気がちょっと変わってしまっていることには気づいた。
「記憶をとられちゃうんだもんね。『けずり女』ってモンスターみたいだよね。
 はじめて見る桜林さんの悲しそうな顔。いけない。私がつらそうな顔をしすぎたせいだ。
「私は努力してこのお仕事についたんじゃない。ただ、生まれつき、『けずり女』だったから、この仕事ができただけ。だから、先生って呼ばれる資格もないの」
 私はあわてた。違う。私がつらい顔をしたのは桜林さんを恐れてるからじゃないんだ。私が恐れたのは口に入ったものが記憶を削るということで、桜林さんではない。全然関係ないところで、桜林さんが傷ついてしまっている。そんなのは嫌だ。でも、口をあけたままで、私は何も伝えることができない。
 仕方ないから、私は首をいやいやをするように横に振った。
「ありがとう。変な気遣いさせてごめんね」
 ああ、違う。それはちっともわかってない「ありがとう」だ。儀礼的な「ありがとう」だ。それじゃあ、またまずい記憶が増えてしまう!
「違うんでふ!」
 口に唾がたまったまま叫んでしまったので、変な語尾になってしまった。削ってる記憶を飲み込んでしまったかもしれない。だけど、じっとしてはいられない。
「違います! とにかく違います! 私は桜林さんを尊敬してます! けずり女だなんて差別しようとしたことは一度もありません! だから、そんな暗い気持ちを残さないで下さい!」
 もう、一度出てしまった言葉はとどまりようがなかった。
「だって、そうでないと、私のせいで桜林さんが勝手に傷ついたら、その記憶は私の中にもまた蓄積されちゃうじゃないですか! また、何かあるたびに化膿しちゃうじゃないですか!」
 桜林さんのはっとしたような顔。それは営業スマイルとはちっとも違うけど、私はなんだか安心できた。なんだ、桜林さんも私と変わらないじゃないか。
「ありがとう」
 今度の「ありがとう」はさっきとは意味が違う。
「ごめんね。一度うがいして」
 そういえば、血の味が口にしていた。
 確かにね、私も削られることは怖い。たとえ忘れたいことだとしても、自分の記憶がなくなってしまうことへの不気味さは消えようがない。だから、『けずり女』って言って差別する人がいるのもわからなくもない。鋭い金属音とがりがりがりというすりつぶすような音。こういう音をみんなは本能的に恐れている。
 それでも私は桜林さんを必要としている。
「よく覚えておいて。私は削っているの。お医者さんみたいに治療しているんじゃなくて、あった部分を取り除いてるの。それは見方を変えればひどい現実逃避にも見えるかもしれない。とてもずるいことのように見えてしまうかもしれない。けれどね、それでもいいと私は思う。辛いことにくじけず立ち向かえっていうのは、本当に強い人だけができること。そんなことをほかの人に強制することなんてできないわ。だから私はこの仕事を誇りに思ってる」
 と、桜林さんは削りながら言った。
 そんなことを言うってことは、まだ桜林さんも削ることに誇りを持ち得ていないってことなんだ。でも、それでいいような気もする。不安がなくなりすぎたら、それはそれで人はバランスを崩してしまうだろう。
 歯の奥が、ひゅん、としみる。
 このしみる痛みは罪悪感のせいだ。自分の記憶を無責任に投げ飛ばしてしまう罪悪感のせい。いくら、楽になれるとしても、私は自分の記憶を飛ばすという責任をとらないといけない。その値段がこのしみる痛みなんだ。
「よく頑張ったね。あとは仕上げ」
 また、桜林さんの手が額にやってくる。
 じゅりじゅりじゅり。
 じゅりじゅりじゅり。
 この桜林さんの石臼で私の嫌な思い出はだんだんとなくなっていく。わだかまりも消えていく。昔の嫌なことを私は忘れていく。それでも、石臼の音だけはきっと忘れることはできない。
「はい、これでおしまい。また、何かあったら来てね。次はお菓子も用意しておくわ」
 終わってしまえばなんてことはなかった。ああ、嫌な記憶ってそういうものなんだよね、と私は柄にもなく悟ったような気持ちになる。ああ、そうだ、明日は進路を書いて提出しないといけない。
「私、心理学の学部に入ります」私は桜林さんの目を見て宣言する。できるだけ恥ずかしく。もし約束を破ったら恥ずかしくてたまらないように。「それで、カウンセラーになって桜林さんみたいなけずり女で悩んでる人を助けてあげるんです」
「素晴らしい夢ね」と、桜林さんも笑った。「じゃあ、浅野さんが先生になるまで私も待ってるからね」
「はい、待っていて下さい。先生」
 ドアをゆっくりと閉めると、私は小島さんのいる体育館に向かうことにした。ちゃんと謝ろう。悪い記憶は化膿する前に私が予防してやるんだ。

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