こんにちは、森田です。
どうやら、日曜日に東京のほうで東方の大きなお祭りがあったようですね。知人。友人もたくさん行っていたようです。
まあ、私は北陸で寂しく小説の仕事をしてたのですが……。
すみません、はっきりいって関東や関西で何か盛り上がってるたびに参加できないような場所に住んでることを悲しく感じてしまいます。もともと、けっこう即売会とか行ってて、サークルも出してた人間なので……。
で、あまりにも参加された方が羨ましい&恨めしいので、久しぶりに即売会に参加した気になることにしました。
ということで、東方の短編小説を書いてみました。短編といっても今までのものと比べるとかなり長いですが。一応、東方を知らない方・そんなに好きじゃない方でも楽しんでもらえるようには書いたつもりです。もっとも、そもそも私自身、東方というものに対する知識が曖昧な部分も多いので、間違ってる点、矛盾してる点などありましたら、教えていただけるとありがたいです。
あと、話が変わりますが、もし次の本を待っておられる方がいられましたら、なかなか新刊の発表ができず、申し訳ありません。なにぶん、兼業なもので……。とりあえず、新作が出るまでこの小説でお待ち下さい。
前置きが長くなりました。それでは、どうぞ。
恋は図書館で学びなさい
私の名前はパチュリー・ノーレッジ。種族は魔女。生まれて百年ほどになる。
今は大きな屋敷の図書館を寓居にしている。一日中、本に埋もれて生きている。
この部屋を訪れた者は、八割がカビくさいと言う。まるでそれが自明の真理だとでもいうふうに、声高に、得意そうに。
だけれど、それは大きな間違いと言わざるを得ない。自己の認識と客観的事実を取り違えているのだ。少なくとも、私にとってこの大図書館の古い本のにおいは、心を落ち着けるハーブのようなものだ。
それを居直りととるなら構わない。それなら訪ねてもらわなくていい。どうせ、この地下に用事のある者などそういないだろう。だから、私もゆっくりと本をめくることができる。
そんな薄暗い地下の図書館に一人だけ、定期的にやってくる客がいる。
「いつ来てみても、カビくさいわね」
と、自己の認識を客観的事実だと信じ切っている発言で、その客は入ってきた。
「ここを自由に使っていいと言ったのはあなたのはずよ、レミィ」
白のドレスをまとった高貴な吸血鬼に私はそう言葉を返す。
彼女の名前はレミリア・スカーレット。この館の主人だ。もっとも、執務全般は咲夜という召使いに任せきりで、主人らしいことと言えば、たまにひらくお茶会くらいのものだけれど。
私の使っている図書館は彼女の屋敷の地下にあるもので、身分から言えば私は食客。つまり、居候だ。
「誰も使い方に文句なんて言っていないわ。パチェの言葉を借りるなら、ワタシは自分の認識を口にしただけよ。まさか、自分の屋敷の部屋の感想を述べてはならないなんて法はないでしょう?」
レミィは妖しく笑う。毒リンゴを食べさせた白雪姫の継母のような顔で。彼女の性格が悪いわけではない。レミィは無邪気だ。ただ、残酷な部分を誰からも矯正されていないのだ。私の十倍は生きているのに、いっこうに精神的成長が見られず、私たちはお互いを愛称で呼び交わす。もっとも、私たちに年月なんてものは意味をなさないのかもしれないが。
「それもそうね。だけど、そんなことを言われて、私が不快な思いをするということも、レミィは知っていたはずだわ。できれば控えていただきたいものね」
レミィの皮肉に私は皮肉で返し、本に目を戻した。
「ねえ、今日はいい天気だったわよ。ワタシ、咲夜に傘を差してもらって外出したの。もう、外はだいぶん春めいてきたわ」
私の話を無視してレミィは今日の出来事をべらべらと話した。それを私はうなずくこともせずに、横で聞き流す。別に今に始まったことではない。もう、かれこれ七、八十年やってきたことだ。
レミィの言葉が途切れたかと思うと、ふっと本にかぶさるように彼女が顔を近づけてきた。彼女の赤紫の髪がかすかに頬に触れる。
「何よ。読めないじゃない」
「よくこんな辛気くさいものばかり読んで退屈しないわね」
「余計なお世話よ。こうやって知識の整理をするのが私の楽しみなの」
「ふうん、知識ねぇ。あのさ、『知識』ってどういう意味でしたかしら、パチュリー・ノーレッジさん?」
変にしなを作って、レミィは赤い目を私に向ける。
「辞書的な言い方をすると、『認識活動によって得られ、客観的に確証された成果』というところかしら」
「ふうん。成果ね。では、知恵はどういう意味でしたかしら? あ、仏教用語っていう解説はなしよ」
「ギリシア語のソフィア、英語のウィズダムにあたる言葉ね。『学問知識を積み重ねただけでなく、物事の本質を理解する能力、知識を正しく使用する実践的な叡智』、これで答えになっているかしら?」
ぱちぱちとおどけて拍手してみせるレミィ。
「正解、正解、よくできました。でも、おかしいわね。そこまでわかっていて、どうしていまだに知識の整理にこだわるのかしら、パチェリー・ノーレッジさん」
レミィはさっと私を小馬鹿にした表情を作る。諧謔的な仕草を演じることにかけては、彼女の右に出る者はいない。きっと生まれながらに貴族であるという出自と関係しているのだろう。
「質問の意図がよくわからないわ、吸血鬼さん」
そんなことはもちろんなかったが、私ははぐらかした。なかば義務的に。
「貴女はいつまで経っても『知識を正しく実践する』気がないのねと言っているのよ。骨の髄まで貴女はノーレッジ、決してパチュリー・ウィズダムにはなれないのね」
私は、ぱたんと本を閉じた。意識をレミィに集中させるために。
「その言い方はおかしいわ。だって、知恵が知識の上位交換概念だとは限らないわ。実践を強調する手合いはたいてい、知識がおろそかであると相場が決まっているのよ」
「少しは外に出てみなさいよ。観察も科学的思考には大切よ。それに――」
レミィは私のそばに積み重ねられていた本の上をさっと払った。
ホコリがばっとその場に舞う。ホコリはランプの灯りに照らされて、小さな生き物の集まりのように揺らめいた。
そのせいか何か胸の奥がつかえる感覚があった。
「けほっけほけほっ! こほ、ごほっ!」
私は盛大に咳を繰り返した。重度のぜんそくなのだ。なおる気配はまったくない。
「こんなじめじめしてホコリだらけのところにいれば、体にも悪いわ。知ってる? 人間って湿地帯に住んでると、簡単に結核にかかって死んでしまうのよ。今はそうでもないでしょうけど」
くすくすとレミィはおかしそうにむせる私を見つめていた。いかにも楽しげなその目つきに、かすかに私を案じるものが混じるのが見えた。
「ほら、だから、日光浴とはいかなくても、深呼吸くらいどうかしら? それで部屋をあけている間に使用人たちに掃除をさせればいいわ。どうせ、本の配置を動かしたら貴女が怒るから、本にたまったホコリを払うだけになるでしょうけど」
結局、レミィは私のためを思って言ってくれているのか。それがわかると、意地を張るのも恥ずかしくなった。
「そうね。気が向いたら考えておくわ。家主に逆らって追い出されても困ってしまうし」
「違いないわ」
そのとき、深夜十二時を告げる鐘が鳴った。この屋敷は夜中の十二時のときだけ、鐘が鳴るようにできている。
「あら、十二時ね」わざとらしくレミィが言う。「では、そろそろ退散しようかしら。十二時と言えば、愛する二人が離ればなれになる時間らしいからね」
「どちらがシンデレラでどちらが王子様なのかしら」
帰ると言いながら、レミィはまだ去るつもりはないようだ。
「あのさ、ところで愛と恋の違いって何なのかしら」
「まったく違うわ。まず愛は漢語で、恋は和語じゃないの」
「そんなことどうでもいいわ。それで、違いは?」
そういえば、あまりそんなこと真面目に考えたこともなかった。
「愛の本義は、対象をいつくしむことね。恋は、もともとは動植物や季節を思い慕うことだったはず。『恋う』というのは『乞う』、何かを求める気持ちのことだから」
「そしたら、私と貴女の関係は愛かしら、恋かしら、それともどちらでもないのかしら?」
私は、その要領の得ない質問に考えをめぐらしてみた。しばらく時間が経ったが、いい答えは出てこなかった。そもそも目の前に人がいて思いつくようなたぐいの答えでもないだろう。
「愛とか恋って言葉は一方的な感情よ。二人の関係を差す場合には、不適切ね」
私は答えをはぐらかしている自分に気づいた。少なくとも、自分が納得する回答とは言えなかった。
「ワタシはパチェのことを愛してもいるし、恋してもいるわ」
なまめかしく、いたずらっぽく、レミィは笑いかけ、私の手をとった。
彼女の手はいつもどこか湿っていて、自分の皮膚との違いに驚かされる。病弱な私の体は生来、かさかさに乾いて艶も脂もない。ただし、それを悲観してはいない。本を傷めずに読むには、都合がいい。
それから、私の手に小さくキスをした。
「お邪魔したわね。それじゃあ」
やっと吸血鬼は部屋に戻っていった。貴族というのは時間が余るとろくなことをしない。
寝る前にいつも私はとりとめのない思考に頭を動かしている。それはその日読んだ本の内容であったり、自分が生まれた頃のことであったり、百年後の屋敷のことだったりした。そのまとまりない思考が、机上の恋愛問答のせいで愛とか恋のことになっていた。
そして、かなり本質的なその単語群を自分が今まで意識から外していたことに驚かされた。それが形而上的な概念か、あるいはもっとも卑近で俗的な概念かは人によって答えは異なるだろうが、愛とか恋とかいうものは思考のうちでは誰もが通るもののはずだった。
なのに、自分はそれをあたかもないかのように扱っていた。これはどういうことだろうか?
たとえば、今の状況は、客観的に叙述すれば、どうなるのだろう。私たちは「愛し合っている」のだろうか。どうでもいい人間に衣食住を提供するほどレミィは善人ではない。少なくとも私は気に入られているからこそ、ここにいることを許されているのだ。だとしたら、それは愛なのだろうか。仮に愛されているとしよう。しかし、果たして私のほうはレミィに愛など与えているのだろうか? これは一方的にレミィが私を愛しているにすぎないのではないか?
そもそも、私がレミィを愛しているなどと考えたことがあったか?
結論を言えば――ない。
まして、恋うなんてことは決してなかった。
私の横にはいつもレミィがいたから、レミィを求める意味なんてなかった。満ち足りているのに、欲することはできない。
もちろん、私だって古典の時代から恋や愛の物語が無数に作られてきたことくらいは知っている。一目惚れのラブロマンスも、身分違いの悲劇も、愛欲に満ちた物語も、私はいくつも読んできた。
ただし、それでも登場人物が抱いているその感情がどういったものなのか、私にはわからない。まさに知識でしか私は恋や愛を知らないのだ。その点、知恵がないのだ、私には。愛の知恵が。
そこに、とんとんとドアをノックする音が響いた。
誰だろうとベッドから降り、ドアを開けるとレミィが立っていた。
「ねえ、血を吸わせて」
当然の権利のようにそう言った。実際、そうだ。私は所詮ここで飼われているに過ぎない。
「また、唐突ね」
「ええ。貴族というのはいつも気まぐれなものなのよ。久しぶりに貴女の血が吸いたくなったの」
レミィが猫なで声でささやく。私の耳朶がふるふると震える。何が久しぶりだ。四日前にも吸ったじゃないかと思いつつも、私は「好きにして」と答えた。
「ええ、好きにさせてもらうわ」
舌先でいい場所を探し当てると、首元に静かに歯を添わせる。注射のような細い痛みの後に、何かが体から漏れ出ていく感覚がある。それは感覚の閾値にすらまるで届かない小さなもので、快楽とも苦痛とも私は思わなかった。それでも、ずいぶんおいしそうに血を舐めとる彼女の顔は見ていて、悪いものではなかった。
「そんなに血がほしいのなら、ほかの人の血も飲めばいいのに。あなたには門番も使用人もいるじゃないの」
「貴女、吸血鬼のセンスがないわね」
「吸血鬼ではないのだから、仕方ないわ」
「下僕(しもべ)の血なんて飲んだって仕方ないじゃない。あの子たちはもうワタシに従っているんだから」
傷口を舐められると、少しひりひりとしみた。
「まるで血を飲むことで自分の所有物にできるって言ってるみたいね」
「そうよ。本当なら吸血鬼に血を飲まれた者はその吸血鬼の眷属になるの。もっとも、悪魔の貴女には効かないようだけれど」
どこまで本気かわからないが、レミィは残念そうな声を出す。
「レミィの眷属になんてお断りだわ」
「そうね、それじゃ、つまらないものね。では、今度こそ退散するわ」
今日の会話はそこで途切れた。
あるいは続いていたのかもしれないが、私の記憶は眠りの中に抜け落ちてしまっていたのだ。
◆ ◆ ◆
結局、日光浴なんて物好きなことは反故にしてやった。にもかかわらず、私の運動量はそれから数か月で激増することになった。
本泥棒が白昼堂々とやってくるようになったからだ。
その女泥棒はさほど変わったところのない人間の魔法使いだった。言ってみれば、普通の魔法使いだ。白いブラウスの上にいかにも魔法使い然としたサロペットスカートを着て、実用性を無視した大きなとんがった帽子をかぶっている。そして、箒にまたがってやってくるともなれば、時代錯誤もここまでくれば芸術というものだ。
ただ、その魔法使いが発する雰囲気は、魔法使いの既成概念とかけ離れて、粗野で横暴で出鱈目だった。
最初、その泥棒と対面したとき、私は恐れることも怒ることもできなかった。なにせ、魔法使いのほうが泥棒という自覚もないかのように、図書館の大切な稀覯書をがばがばと引っこ抜いていたからだ。自分の帽子をひっくり返すと、袋にでも入れるように高価な書籍を投げ入れていく。
「ちょっと! 何してるの、この泥棒!」
泥棒など生まれてこのかた見たことはなかったが、怒鳴りつけるのが遅れたのは、物珍しさのせいばかりではないだろう。本当に自分が泥棒だと認識してさえいないのかもしれない。
「あ? 泥棒? それは違うぜ」
本を手に持ったまま、魔法使いはこちらを振り返った。もしも閻魔とやらが、この場にいたら、すぐさま「黒っ!」と叫んで舌を抜こうとするだろう。
「まず、その本を放してから言いなさい。それとも虚言癖の症状があるのかしら。ウソをつくならミュンヒハウゼン男爵くらい魅力的なウソをつくことね」
「いやいや、盗むつもりなんてないんだぜ。――――ずっと、一生、借りておくだけだ」
不遜極まりないその一言に理性のタガが外れた。私は夢遊病者のように精霊魔法をその魔法使いに向かって放った。少しは反省するといい。
しかし、その攻撃は敵にまで届かなかった。
「マスタースパークだぜ!」
言うが早いか、魔法使いの発した破格の威力のレーザーが何もかもを呑みこんでいった。私はその一撃で吹き飛ばされてしまった。そんなバカな。人間の魔法使いにしては出来がよすぎる。そんなことを考えながら、私の意識は途絶えた。
目が覚めたとき、魔法使いの顔が目の前にあった。
「わっ! 何のつもり!」
生贄にでもされるのではと私は本気であわてた。
「その言い草はないな」
その黒い魔法使いは心外だと顔をしかめる。見ると、汚い巻き方の包帯がされてあった。この魔法使いの仕業だろう。
「気を失うたぁ、びっくりしたぜ。じゃあな」
魔法使いは飛んでいこうとする。
「あ、こら、そこの黒いの、待ちなさい! 本を返せ!」
「大丈夫、死んだら返す」
にっと男のように笑うと、その魔法使いは箒に乗って、地下の図書館から強引に出て行った。少し天井に頭をぶつけるくらいなんでもないという乱暴さで。
私はしばらく白昼夢を見たように放心していた。何から何まであの黒い魔法使いは理解の範疇を超えていた。善とか悪とかそういった基準の外の存在。
盗まれたものを取り返そうとする活力など私にあるはずもなく、読みかけの魔導書に戻った。世間的に見れば、私は引きこもりと言うらしいが、その言葉は嫌いだ。部屋で過ごすことを何の根拠もなく否定的なイメージで語っているからだ。
夜もだらだらと術式の紋様のページを眺めていると、十二時前にレミィがいつものように現れた。
そこで私はあることに気づいた。
本を盗まれても、何一つ困っていないということに。
どうせ使わないのだ、そんな知識など。
「何か浮かない顔してるわね、いつも以上に」
怪訝そうな顔でレミィがつぶやく。
「むしろ、私が浮かれた顔をしているのを見たことがあるのかしら?」
いつも通り、皮肉で答える。
「今日のパチェは何かおかしいわ。浮かない顔なのは同じだけど。いつものパチェはそもそも何も考えてない。今日のパチェは明後日のことを考えているようだわ」
「ひどく心外な意見ね。もっとも、その観察眼はたいしたものだと誉めてあげるわ」
私にも多少の自覚はある。
「貴女のその科学的態度は称讃に値するわ。それで何か変わったことがあった?」
「そういえば、黒い闖入者が入ってきたわ」
意識していたわけではないが、平常と違うことといえば、それくらいだった。
「黒いの? ゴキブリ? ああ、あの魔法使いのことね」
ずいぶんと屋敷を壊していったわ、と他人事のようにレミィは言った。
「暇つぶしにはちょうどいいんじゃないかしら。タダで曲芸師が来ると思えば悪い気はしないわ」
本当にどうでもよさそうにレミィは言葉を紡ぐ。高貴な吸血鬼にとっては人間なんて、まったくどうでもよいことなのかもしれない。
「私はあまり来てもらいたくないけどね。本というのは春になったらまた生えてくるというものではないのよ」
頭には黒い魔法使いがずっと居座って、裏表のない笑みでふんぞり返っていた。情けない話だが、盗まれた本に書いてあることをすべて足したところで、その小さな襲撃以上に私の心を動かすことはできないようだった。
また、あれが来たら私の心の波紋はいよいよ大きくなってしまうだろう。
しかし、それが翌日にやってくるとは思わなかった。
「よっ。また来たぜ」
罪悪感の欠片も見せない表情で元気よく、その黒い魔法使いは答えた。
「誰も来てくれなんて頼んでないわ」
「魔導書がわたしを呼んでるんだぜ」
「あなた、どこまで自分勝手なの。自分勝手に手足が生えてきたんじゃないかしら。ほんとに盗人猛々しいわ」
「だから盗人じゃねえぜ。一生借りるだけだって」
その魔法使いは自分には収集癖があるとか、聞いてもいないことをべらべらしゃべり出した。その話が終わったかと思うと、魔法の実験に話は移り、それがようやく終わったかと思うと「霧雨魔法店」という店を開いているという話が出てきた。その話でようやく、その黒いのの姓が霧雨だということがわかった。
その魔法使いの名前は霧雨魔理沙。純粋な人間でほかの血はどこにも流れていないということだった。人間であれだけの魔法が使えるとしたら、それは才能としか言いようがない。努力もないことはないだろうが、子供がどれだけ高く飛び上がったところで、尖塔のてっぺんには届くまい。努力というのは、似たレベルの者同士の研鑽においてのみ意義を持つ行為だ。
いつの間にか私は毒気を抜かれて、霧雨魔理沙の話を聞いていた。というよりも、最初からその黒いのには悪意も敵意も何もないのだ。なんとなく楽しそうなものを探してうろつき回っているという風見鶏な生き方。
「お店をやっているのに、昼間からあけていいの?」
「どうせ、誰も来ないぜ。開店休業ってやつだな」
また、うわべも飾りもない表情で黒いのは笑い飛ばす。この人間はネガティブなことさえ、楽しそうに話す。なんでも斜に構えて観察する私から比べれば信じられない性格だ。
「何も仕事がないなんて、いい気なものね」
私はいつもレミィにするように言ってやった。
「じゃあ、お前の仕事は何なんだ?」
さらりと言われて、私はさっと顔を赤らめた。侮辱する意志などこの黒いのにはない。だからこそ、余計に羞恥を覚えた。私は仕事などもっていない。
そもそも、何のために生きているかということすらわかっていない。
漠然と、本のページを繰ることだけを続けているだけ。
「ほっといてほしいわ、そんなこと」
こんなセリフ、レミィに言おうものなら、どうやりこめられるかわかったものではない。そんな無防備な言葉でしか私は反駁できなかった。
「ふうん、まあ、人それぞれだからな」
積み上げられた本の上に座っていた霧雨魔理沙はゆっくりと腰をあげた。
「じゃあ、そろそろ行くかな」
「あ、そうなの。さような――」
その手に数冊の本が見えた。
「――って、待ちなさい!」
また、魔法合戦が図書館で始まることになった。
そんなやりとりはそれから数か月続いた。
魔理沙は相変わらず、隙を見つければ、本をかすめようとするし、私はそれを防ごうとする。そんないたちごっこだった。次第に私も腕をあげて、時には魔理沙を撃退することもあった。もっとも、そうしたところで、私は本を取られないですむだけだが。
ただ、問答無用の争いはなりをひそめ、私たちの遭遇も次第に平和的になってきた。というか、私が慣れただけだ。生物はどんな理不尽な環境にすら順応するらしい。いつのまにか魔理沙の訪問は私の日常になりつつあった。
「また来たぜ」
その日も騒がしく、魔理沙はやってきた。来るなり、そのへんにあった本を広げて読みふける。まるで自分の家かというようなくつろぎようだ。
私も今更追い出す気もしないので、そのまま遊ばせておくことにした。けっこうな数の本が盗まれたはずだが、大図書館はいっこうに本の減った様子を見せなかった。
「あなた、何が楽しくてこんなことしてるの?」
本に目を落としたまま、つぶやく。
「何となく楽しいからやってるんだぜ。楽しくないなら、やらないしな」魔理沙のほうは律儀に目をこちらに向けてくる。視線が寄せられるのがわかる。「パチュリーも本を読むのが楽しいから、ここにいるんだろ?」
「それは……」
即答できなかった。
その時点で、答えは「否」だ。
私はずっとずっと本を読んで暮らしてきた。だけれど、それが面白いのかと問われれば、自信がない。しかし、そもそも楽しくすらなかったとしたら、私は何のために本を読んでいるのだろう。何の目的があるわけでもないのに。
パチュリー・ノーレッジはその知識を何に使うつもりなのか。
自己の認識を客観的事実へとより近づけるため。
数か月前の私なら恥ずかしげもなく、そう答えられたはずだ。
しかし、今の私には、「それに何の意味があるのか?」というその先の質問が待っていた。それはレミィの問答のせいと言えばそれまでだが、ずっと頭から離れないということは自分にも自覚があるのだろう。
そこに、きぃ、と図書館の扉がひらいた。
「お茶をお持ちいたしました」
丁重な言葉遣いで入ってきたのは、この館のメイド長の咲夜だった。彼女がお茶を持って入ってくることはさほど珍しいことではないが、その日は木製のプレート(レミィはあまり銀製品を好まないのだ)にカップが二つ並んでいた。
「あら、どうしてカップが二つあるのかしら?」
「お客様がお見えのようですから」
完爾とした笑みで彼女は答えた。彼女ほどよくできた使用人を私は知らない。ただし、使用人といっても、この屋敷の家政も経済もすべて彼女の意のままではあったが。もし、彼女が主人然とした服を着ようものなら、屋敷中の人間が彼女を新たな主人と認めるのではないかという気さえする。
「おう、ごちそうになるぜ」
厄介人は子供のように気楽に返答する。
ここで茶器を持たせたまま追い返すのも大人げないし、私はテーブルに置かれるプレートを恨めしそうに見た。
「パチュリー様は、お変わりになられましたね」
かすかに表情をゆるめて、咲夜さんは笑う。
「そうかしら? そんなつもりは毛頭ないのだけれど」
「ええ。お気を悪くなさらないで下さいね。ある意味、気持ちを包み隠すのがお下手になられました」
まるでそれが偽りない誉め言葉だとでもいう表情だった。
「それで気を悪くするなというふうが無理だわ」
「ええ、すみません。でも、端から見ているとほっとするんですよ。お茶は出るのにしばらく時間がかかります」
プレートの上の砂時計を彼女はひっくり返した。
「この砂がすべて落ちたら、ちょうどいい塩梅です。パチュリー様、お客様のおもてなし、お願いいたしますね」
そして、咲夜さんは部屋を後にする。。
「あと、それと、お嬢様にも優しくしてあげて下さいね」
母親が娘の友達に語りかけるような言葉を残して。
私の前にはもてあまし気味の茶器がある。お互いに砂時計に目がいく。そのうちに魔理沙と目が合う。そうなると、黙っているのがもどかしくなる。
「じっと見ていても、お茶は早くできないわよ」
「それはお前も同じだぜ」
「私にはあなたをもてなす義務があるのよ。不本意だけど」
「あの、メイド、おっかなかったぜ」
「どこまでも失礼な人ね」
「だって、バックに殺気が漂ってたぜ。絶対、人を殺してるな。そういう勝負師のオーラがある」
案外そうかもという思いもあったので、否定はしなかった。
「あなた、家でお茶は入れるの?」
「お招きにあずかるのはうれしいけど、自分ではやらないぜ。どっちかというと、日本茶のほうが落ち着くしな」
「私はああいう苦いお茶はダメだわ。早摘みで発酵が小さいお茶はダメなの」
「それは人生を半分損してるぜ」
「それはお茶が偉大なのかしら。それとも私の人生の価値が軽すぎるのかしら」
「寒い冬の日にあえて縁側に出て、熱い茶をすする、最高だぜ」
「私にはついていけない発想だわ」
「このお茶菓子、美味いな」
「お茶が入る前に食べるな!」
「お」また、天真爛漫というか天衣無縫というか。「お前もキレることあるんだな」
どうして、この黒いのはこうも邪気のない表情ができるのか!
私は無性にいらいらとしているのに気づいた。
霧雨魔理沙という人間は私の殻を壊す。あるいは溶かすと言ってもいい。霧雨魔理沙と一緒にいると私は変になってしまう!
「お、砂時計が落ちたぜ」
言われて、時計の上側が空になっていることを認識する。
「今、淹れるわ!」
あわててティーカップに手を伸ばす。
「わたしがやるぜ」
魔理沙も手を伸ばす。
その手同士がティーカップのところで触れた。
それは私が魔理沙の手に初めて触れた瞬間だった。
手から走った鋭い痛みを私は感じた。そんなことで痛覚が刺激されるわけもないのだが、私にとって、それは痛みと表現するよりないものだった。
それが胸まで達し、頭にまで届いたから、私は手を離さないといけなかった。
そのせいで、ティーカップに手がぶつかる。ティーカップは傾いて、こぼれてしまう。琥珀色の液体がプレートをひたしていく。
「おいおい、わたしは電気の塊じゃないぜ」
「ごめん……」
私はつい魔理沙に謝罪の言葉までかけてしまっていた。それがまた無性に恥ずかくて。
「もう、帰って」
と私は言った。
「おいおい、まだお菓子は残って――」
「帰って! お願いだから、帰って!」
ダダをこねる子供のように、私は魔理沙を追い出した。
私は直感的に理解していた。主観的な知とでもいうもので。
これが恋なのだと。誰かを恋するということなのだと。
◆ ◆ ◆
あれだけ本を読んでもしっくりこなかったはずだ。私は恋なんてものを知らなかったのだ。知識だけの人形。知識だけを肥大化させて、こんな単純なことにすら到達できていなかった。
実のところ、本が減っても減っても私は何も困ることなどなかった。それは私の一部でもなんでもなく、ただ外にあるだけのものだったからだ。私は本の内容を血にも肉にも変えることはできていなかった。本当に時間を浪費して目を通すだけだった。
ただ、それが恋だとわかっても何も楽しいことなどなかった。心は騒霊に憑かれたようにさざめきたち、短い時間で躁と鬱を繰り返した。本に目をやろうとしても、まるで見たこともない言葉で書かれているみたいに頭に入らない。
とんだ茶番だった。十年や二十年しか生きていない人間の娘なら、まだ話はわかる。でも、私は百年近く生きているのだ。
それから、数日の間、私はずっと暗澹とした思いでいた。猫に襲われ、致命傷を負ったネズミみたいに心がじたばたとあがいた。あがくことで傷が増えることさえしらずに死ぬまで踊り続ける、そんな道化芝居と今の自分は何も変わらなかった。
私がどれだけ変わろうと、レミィは定刻通りに現れた。そして、話題もないのに、いくつかの言葉を交わしてはそのまま去っていったり、血を求めたりする。何の変わり映えもない日々だったが、だからこそ私はレミィの顔を見ると、ほっとした。
その日もレミィはやってきた。太陽が沈んで月が代わりに現れるように。
「読書の調子はどう? 何か感動的な体験はできたかしら?」
「そんなものはないわ。本というのは読めば読むほど、簡単に感動できなくなるの。舌が肥えてしまうから」
「つまり、読書家は不感症なのね」
また、毒のある言葉をさらりと吐く。
だけれど、こんなことを彼女の口から言われるとは思っていなかった。
「こんなに苦しそうな貴女、初めて見たわ」
そんな。
外には何もわからないように取り繕っていたはずなのに。
「まさか。私が苦しむことなんて一つもないわ。ここから出ていけと言われれば、話は別だけど」
顔にいつもの無感動な仮面を貼りつけて、私は応対する。恋心を彼女に知られるのを私は恐れていた。なぜかはわからないが。
「パチェ、ワタシはシェイクスピア時代の演劇を見ているのではないの。わかりやすいウソはちゃんとばれてしまうのよ。愚かで純粋な登場人物のようには振る舞えないの」
どこかたしなめるようにレミィは言った。
「貴女、恋をしているわね。まるで、狼を怖がる少女のような目をしているわ」
後ろからそっと彼女は私の肩に手を置いた。
私は動けずにじっとしていた。
「思索的に振る舞うのは貴女らしいといえばらしいけれど、それだけでは運命の車輪は動き出さないわ。好きならば、好きと相手に告げないと」
レミィはすべてを知っている。私のことなど何もかも見透かされている。
抵抗しても無駄だと思った。
「告白? そんなこと、できるわけないわ」
だいたい、恋していると話して何になるというのだ。それから何を望むのかすら決めてもいない。一緒に館の庭でも歩きませんかと提案するのだろうか。
「奥手なのね」
ふう、とレミィが私の首筋に息を吹きかける。ぞくぞくと毛が逆立つ感触がある。
「だって、私の気持ちは恋をしたということで完結してしまっているんだもの。だから、何かをしたいというものが存在しないの」
「それはおかしな話だわ」と後ろからレミィは私の腰に手をまわしながら言う。「あなたは『恋』の原義は何かを乞うことだと言っていたじゃない。求めるもののない『恋』はありえないはずだわ」
私が求めているもの、その質問は実に難しいものだった。とてもいい答えなど出そうにない。
「しいて言えば、一緒にいたいという感覚かしら」
やっと出た結論に一番驚いたのは私だった。あれだけひどい目に遭っておきながら、いざ会っていれば怒鳴るほどにいらいらさせられておきながら、一緒にいたいだなんてよくも言えたものだ。
一拍の間をおいて、レミィは声をたてて笑い出した。広々とした図書館に声がこだまする。
「ははっ、今日のパチェはかわいいわ。うん、本当にかわいい!」
かわいい、という言葉をレミィは何度も続けた。まるで、何かのおまじないのように。
「それでね、貴女は誰のことが好きなの?」
何か審問のような目。
私は答えることができなかった。
その質問の真意を推し量ることができない。
レミィは最初からすべて知った上で聞いているのではないだろうか? それとも本当にわかっていないのだろうか?
もっとも、どちらでも同じことだった。自分の口から、霧雨魔理沙の名前を出すことはできない。私にできることは沈黙を貫くこと、ただそれだけだ。
レミィは手を離すと、ゆっくりと私の前にまわりこみ、目を合わせてきた。
その真紅に輝く目からは、いかなる感情も読み取ることができなかった。それはすべてを焼き尽くすためだけに存在する地獄の業火を思わせた。目を離すこともできず、その目を見ていると、深い深い瞳の奥の空洞へ、奈落へと引きずりこまれていくような気がした。
私がその吸血鬼にそれほどまでに恐怖を覚えたのは初めてだった。この不遜な吸血鬼は生き物の運命さえもてあそぶと言われているが、なるほど、それもただの噂ではないかもしれない。
「そう、答えたくないの。まあ、いいわ。そんなもの知ってどうにかなるものでもないし」
そして、レミィは私の肩に手を置き、
「それじゃ、今日も血をいただきましょうか」
と、いつも通りの「命令」を告げた。
なのに、そのとき、私は反射的に強い不快感を覚えた。
「――――いやっ!」
虚を突いて生まれた言葉だからこそ、そこには装飾も何もなく、生のままの拒絶であふれていて……。私はレミィを退けた。
レミィの目がまたさっきの奈落の闇へ通じるものへと変わる。
いや、その底には敵意が見て取れた。強い強い殺意の塊に触れた気がした。
あいているほうの手が伸ばされ、私の首を狙う。
じっとしていれば、殺されると思った。
とっさに避けた私は、すぐに精霊魔法の準備を始める。
近距離戦闘に持ちこまれたら、終わりだ。なんとか距離をかせがないと。
が、つかまれていたほうの手で引き寄せられる。あいた左手は呪文をぶつけられる態勢になっている。
瞬時の差で、こちらの精霊魔法が発動した。その勢いでレミィと体が離れる。煙の中、とにかく一歩でも間隔を広げるべきだと本棚の上まで移動する。さて、次は敵はどう動く――――!
煙が晴れた先には、彼女の姿はなかった。
だとしたら、どこに?
頭上に殺気のようなものを感じ、私はすぐに視線をあげる。
まさか、そんなところに動く時間などなかったはず!
その途端、足首をつかまれた。
本棚の下から手が伸びていた。
その時点で私の敗北だった。
一気に引きずり下ろされる。信じられないような力が足にかかる。そのあまりの痛みに自分から足を切り落としたくなるほどだ。
床へと叩きつけられ、仰向けのまま倒される。
その首元に鋭利な爪が突きつけられた。
チェックメイト。
やはり、この吸血鬼は格が違う。
その残虐な瞳は、もう憎悪すら忘れていた。
ただ、破壊と解体を楽しみたいからという表情。
死因は貴族の招きに応じなかったから、と言ったところか。
まあ、やむをえまい。
正直なところ、さほど恐ろしいという気分はなかった。私は自分の死に軽薄なところがあった。この百年、別段楽しいといえるような経験もなかったし、これからもないだろう。私には目的というものがないのだ。だからいつまでも知識のみで知恵という実践がないのだ。存在自体が受動的なのだ。ならばもたらされる死を受け入れることもまた必定ではないか。
なのに、そこにあの黒い魔法使いの屈託を知らない笑みが脳裏をよぎる。
その表情は実に澄んでいた。澄みきっていた。
そういえば、なぜあの魔法使いは図書館に来たのか。本をもらうという目的のためだ。
霧雨魔理沙は目的だけで生きている。
何もかも私と対照的な生き方。
そんな水と油の存在が馴れ合えるわけがない。
なのに、私はこの期に及んで願ってしまったのだ。
――会いたい、と。
無目的なこの生の最初の目的に、霧雨魔理沙と会うためという一条を入れてみよう。
そんなもの、明日にはかなってしまうかもしれない。なら、もう一度、魔理沙に会うことを目的にして生きていけばいい。それがかなえば、またもう一度。
なんて、くだらないちっぽけな目標だ。笑ってしまう。凡人も凡人のせせこましい生き方。
でも、そんなことでいいんだ。
生きることに壮大な夢も計画も必要などないのだ。ただ、明日を心待ちにして今日を生きていけるだけのものがあれば。
そんな簡単なことを死ぬ間際に気づくなんて、どれほど滑稽な話なのだろう。
さあ、その爪で心臓をえぐりとって頂戴。この世に何の未練も残せないくらいに。
「……や~めたっと」
唐突にレミィの手がどけられた。彼女は後ろを向いて、ぱんぱんとドレスのホコリをはたく。貴族の気分でその戦闘は終了した。
「ほら、早く立ちなさいよ。もう、何もしないから」
私はおずおずと立ち上がり、同じようにホコリを払った。
「ったく、そんな目を見せられたらたまらないわ。貴女は本当に恋に一途ね。学者先生は春を知らず、か。どれだけ、あの魔法使いのことが好きなのよ」
すぐに顔が赤くなった。ばれていた。当然のように。
「知っていたのね」
「言わずもがなよ。来客嫌いの貴女が出会う頭数なんて、手の指だけでおつりが来るわ。その中でココ最近、貴女に影響を与えてるとしたら、黒の魔法使いしかいないじゃない」
言われてみればその通りで、状況証拠だけで、誰だって答えにたどりつけるのだ。
「今夜はもういいわ。今の運動で疲れたし、興趣もそがれたわ。それに寝首をかかれたら、スカーレット家の笑い者だし」
彼女はさばさばとした顔で言ったが、まだ、どこかためらいがあるように見えた。
「申し訳ないわ。でも、私はとても怖くなったの。今までの私はレミィに何の感慨もなく、血を吸わせていた。それは私が恋を知らない人形だったからよ。だけど、今の私には、それができない。私が恋しているのは、残念ながらあの黒いのだわ。それがわかっていながら、レミィと過ごすのはとても不誠実な気がしたの。それがレミィへの裏切りになるような気がしたの」
上手く言葉にならなかったが、私は必死に話した。言葉を紡いだ。
そして、話せば話すほど、私がレミィのことを恋の対象にできていなかったことに気づくのだ。少なくとも、私はレミィを乞い求めたことなど一度もない。
「要約すると、好きでもないのに体を使って遊ぶというのは、やめないかというわけね」
レミィの声にはトゲがあったが、答えに異を唱える気にもならなかった。
「ええ、そういうことだと思うわ。恋というのは血を、体を求めることとは違うと思うの」
「ふざけないで!」
大きな叫びが図書館を満たした。
「どうしてそんなこと言うの? ワタシだってパチェの心を引きつけたかったわ! そのためにどれだけの努力をしたか! でも、貴女は一度もワタシに心をひらかなかった。だから、貴女の血を愛したの。何度も何度も何度も。何年も何十年も何百年も。貴女がワタシを好きになってくれるように、愛してくれるように。でも、貴女はいつまで経っても人形のままだった。つまらなさげな顔で冷めている人形だった。貴女が心で愛してくれれば、ワタシだってこんなことをする必要だってなかったわよっ!」
その表情にはいつも貴族の余裕はどこにもなかった。等身大の少女のままのレミィだけがそこにいた。
「それでもワタシは満足だったわ。人形の貴女を自由にできるのは自分だけだったから。なのに、横から入って来た変な魔法使いに貴女をさらわれていくなんて、そんなふざけた話があると思う!?」
レミィは泣いていた。
あの驕慢で尊大なレミィがぼろぼろと涙をこぼしていた。
それは間違いなく私が初めて見たレミィの涙だった。
「貴女の定義によれば、ワタシは貴女を愛していたんだと思うの。角砂糖を口で転がすみたいに、大切に、大切にいつくしんでいたわ。今にして思えば本当に愛って一方的なものね。貴女の解釈は慧眼だわ」
どうして、今まで気づいてあげられなかったのだろう。
レミィは心底から私のことを求めてくれていたのだ。そこに不純なものなど何もなかったのだ。
恋も愛も知らなかった私は、それを認識できなかった。自分が恋という感情に気づくまで。
「ワタシ、何度も貴女の血を吸ったわよね。やろうと思えば、貴女を眷属にすることだって訳なかったのよ。でも、ワタシはそんなずるいことをしなかった。そんな情けない真似はしたくなかった。好きな相手の愛くらい、自分で勝ち取りたかった。なのに、人間の魔法使いに貴女を奪われるなんて、とんだ笑い話だわ!」
慰めなければと思った。でも、どうやってレミィを慰めればいいのかわからなかった。そんなもの、どの物の本にも載っていない。
だから、私は両手で彼女を包むことにしたのだ。ほかに何も持っていなかったから。
「わかってるじゃない……。それでいいのよ」
泣きながら、レミィは笑った。
そうか、体というのは相手を包むためにあるのだ。これほどまでに直接的で明快な感情表現はない。そんなことにも、私の自己認識は到達していなかった。本当に学者バカだ。
「さっき、ワタシね、貴女の足を潰してやろうと思ったの」
いたずらっぽく、彼女は笑う。もっとも、それは涙のせいでおかしなものになってしまったが。
「だって、パチェの足が壊れれば、ずっと一緒にいられると思ったから」
「ごめんね」
そう告げるのが私にとって最大の誠意だった。
「ええ。赦してあげる。その代わり、命令ね。この屋敷から勝手に出て行かないこと。貴女はいつまでもワタシのそばにいて。この世に永遠なんてものはないわ。今は無理でも百年後、五百年後には貴女はワタシに恋するようになるかもしれないから」
◆ ◆ ◆
あれから一か月、図書館は前と比べると人口密度があがった。
本棚の前では、あの黒いのが本を読んでいる。
そして、私の前ではどこからか引っ張り出してきたテーブルで、館の主が血の入ったアフタヌーン・ティーを賞味している。その横には、最高位の使用人が静かに控えている。
「こう、人が多くてはおちおち読書もできないわ」
私はため息をついて、主に愚痴をこぼす。
「別にいいじゃない」
と主は言う。
「そんな本より、人付き合いのほうが何百倍も学べるものが多いのだから」
End
どうやら、日曜日に東京のほうで東方の大きなお祭りがあったようですね。知人。友人もたくさん行っていたようです。
まあ、私は北陸で寂しく小説の仕事をしてたのですが……。
すみません、はっきりいって関東や関西で何か盛り上がってるたびに参加できないような場所に住んでることを悲しく感じてしまいます。もともと、けっこう即売会とか行ってて、サークルも出してた人間なので……。
で、あまりにも参加された方が羨ましい&恨めしいので、久しぶりに即売会に参加した気になることにしました。
ということで、東方の短編小説を書いてみました。短編といっても今までのものと比べるとかなり長いですが。一応、東方を知らない方・そんなに好きじゃない方でも楽しんでもらえるようには書いたつもりです。もっとも、そもそも私自身、東方というものに対する知識が曖昧な部分も多いので、間違ってる点、矛盾してる点などありましたら、教えていただけるとありがたいです。
あと、話が変わりますが、もし次の本を待っておられる方がいられましたら、なかなか新刊の発表ができず、申し訳ありません。なにぶん、兼業なもので……。とりあえず、新作が出るまでこの小説でお待ち下さい。
前置きが長くなりました。それでは、どうぞ。
恋は図書館で学びなさい
私の名前はパチュリー・ノーレッジ。種族は魔女。生まれて百年ほどになる。
今は大きな屋敷の図書館を寓居にしている。一日中、本に埋もれて生きている。
この部屋を訪れた者は、八割がカビくさいと言う。まるでそれが自明の真理だとでもいうふうに、声高に、得意そうに。
だけれど、それは大きな間違いと言わざるを得ない。自己の認識と客観的事実を取り違えているのだ。少なくとも、私にとってこの大図書館の古い本のにおいは、心を落ち着けるハーブのようなものだ。
それを居直りととるなら構わない。それなら訪ねてもらわなくていい。どうせ、この地下に用事のある者などそういないだろう。だから、私もゆっくりと本をめくることができる。
そんな薄暗い地下の図書館に一人だけ、定期的にやってくる客がいる。
「いつ来てみても、カビくさいわね」
と、自己の認識を客観的事実だと信じ切っている発言で、その客は入ってきた。
「ここを自由に使っていいと言ったのはあなたのはずよ、レミィ」
白のドレスをまとった高貴な吸血鬼に私はそう言葉を返す。
彼女の名前はレミリア・スカーレット。この館の主人だ。もっとも、執務全般は咲夜という召使いに任せきりで、主人らしいことと言えば、たまにひらくお茶会くらいのものだけれど。
私の使っている図書館は彼女の屋敷の地下にあるもので、身分から言えば私は食客。つまり、居候だ。
「誰も使い方に文句なんて言っていないわ。パチェの言葉を借りるなら、ワタシは自分の認識を口にしただけよ。まさか、自分の屋敷の部屋の感想を述べてはならないなんて法はないでしょう?」
レミィは妖しく笑う。毒リンゴを食べさせた白雪姫の継母のような顔で。彼女の性格が悪いわけではない。レミィは無邪気だ。ただ、残酷な部分を誰からも矯正されていないのだ。私の十倍は生きているのに、いっこうに精神的成長が見られず、私たちはお互いを愛称で呼び交わす。もっとも、私たちに年月なんてものは意味をなさないのかもしれないが。
「それもそうね。だけど、そんなことを言われて、私が不快な思いをするということも、レミィは知っていたはずだわ。できれば控えていただきたいものね」
レミィの皮肉に私は皮肉で返し、本に目を戻した。
「ねえ、今日はいい天気だったわよ。ワタシ、咲夜に傘を差してもらって外出したの。もう、外はだいぶん春めいてきたわ」
私の話を無視してレミィは今日の出来事をべらべらと話した。それを私はうなずくこともせずに、横で聞き流す。別に今に始まったことではない。もう、かれこれ七、八十年やってきたことだ。
レミィの言葉が途切れたかと思うと、ふっと本にかぶさるように彼女が顔を近づけてきた。彼女の赤紫の髪がかすかに頬に触れる。
「何よ。読めないじゃない」
「よくこんな辛気くさいものばかり読んで退屈しないわね」
「余計なお世話よ。こうやって知識の整理をするのが私の楽しみなの」
「ふうん、知識ねぇ。あのさ、『知識』ってどういう意味でしたかしら、パチュリー・ノーレッジさん?」
変にしなを作って、レミィは赤い目を私に向ける。
「辞書的な言い方をすると、『認識活動によって得られ、客観的に確証された成果』というところかしら」
「ふうん。成果ね。では、知恵はどういう意味でしたかしら? あ、仏教用語っていう解説はなしよ」
「ギリシア語のソフィア、英語のウィズダムにあたる言葉ね。『学問知識を積み重ねただけでなく、物事の本質を理解する能力、知識を正しく使用する実践的な叡智』、これで答えになっているかしら?」
ぱちぱちとおどけて拍手してみせるレミィ。
「正解、正解、よくできました。でも、おかしいわね。そこまでわかっていて、どうしていまだに知識の整理にこだわるのかしら、パチェリー・ノーレッジさん」
レミィはさっと私を小馬鹿にした表情を作る。諧謔的な仕草を演じることにかけては、彼女の右に出る者はいない。きっと生まれながらに貴族であるという出自と関係しているのだろう。
「質問の意図がよくわからないわ、吸血鬼さん」
そんなことはもちろんなかったが、私ははぐらかした。なかば義務的に。
「貴女はいつまで経っても『知識を正しく実践する』気がないのねと言っているのよ。骨の髄まで貴女はノーレッジ、決してパチュリー・ウィズダムにはなれないのね」
私は、ぱたんと本を閉じた。意識をレミィに集中させるために。
「その言い方はおかしいわ。だって、知恵が知識の上位交換概念だとは限らないわ。実践を強調する手合いはたいてい、知識がおろそかであると相場が決まっているのよ」
「少しは外に出てみなさいよ。観察も科学的思考には大切よ。それに――」
レミィは私のそばに積み重ねられていた本の上をさっと払った。
ホコリがばっとその場に舞う。ホコリはランプの灯りに照らされて、小さな生き物の集まりのように揺らめいた。
そのせいか何か胸の奥がつかえる感覚があった。
「けほっけほけほっ! こほ、ごほっ!」
私は盛大に咳を繰り返した。重度のぜんそくなのだ。なおる気配はまったくない。
「こんなじめじめしてホコリだらけのところにいれば、体にも悪いわ。知ってる? 人間って湿地帯に住んでると、簡単に結核にかかって死んでしまうのよ。今はそうでもないでしょうけど」
くすくすとレミィはおかしそうにむせる私を見つめていた。いかにも楽しげなその目つきに、かすかに私を案じるものが混じるのが見えた。
「ほら、だから、日光浴とはいかなくても、深呼吸くらいどうかしら? それで部屋をあけている間に使用人たちに掃除をさせればいいわ。どうせ、本の配置を動かしたら貴女が怒るから、本にたまったホコリを払うだけになるでしょうけど」
結局、レミィは私のためを思って言ってくれているのか。それがわかると、意地を張るのも恥ずかしくなった。
「そうね。気が向いたら考えておくわ。家主に逆らって追い出されても困ってしまうし」
「違いないわ」
そのとき、深夜十二時を告げる鐘が鳴った。この屋敷は夜中の十二時のときだけ、鐘が鳴るようにできている。
「あら、十二時ね」わざとらしくレミィが言う。「では、そろそろ退散しようかしら。十二時と言えば、愛する二人が離ればなれになる時間らしいからね」
「どちらがシンデレラでどちらが王子様なのかしら」
帰ると言いながら、レミィはまだ去るつもりはないようだ。
「あのさ、ところで愛と恋の違いって何なのかしら」
「まったく違うわ。まず愛は漢語で、恋は和語じゃないの」
「そんなことどうでもいいわ。それで、違いは?」
そういえば、あまりそんなこと真面目に考えたこともなかった。
「愛の本義は、対象をいつくしむことね。恋は、もともとは動植物や季節を思い慕うことだったはず。『恋う』というのは『乞う』、何かを求める気持ちのことだから」
「そしたら、私と貴女の関係は愛かしら、恋かしら、それともどちらでもないのかしら?」
私は、その要領の得ない質問に考えをめぐらしてみた。しばらく時間が経ったが、いい答えは出てこなかった。そもそも目の前に人がいて思いつくようなたぐいの答えでもないだろう。
「愛とか恋って言葉は一方的な感情よ。二人の関係を差す場合には、不適切ね」
私は答えをはぐらかしている自分に気づいた。少なくとも、自分が納得する回答とは言えなかった。
「ワタシはパチェのことを愛してもいるし、恋してもいるわ」
なまめかしく、いたずらっぽく、レミィは笑いかけ、私の手をとった。
彼女の手はいつもどこか湿っていて、自分の皮膚との違いに驚かされる。病弱な私の体は生来、かさかさに乾いて艶も脂もない。ただし、それを悲観してはいない。本を傷めずに読むには、都合がいい。
それから、私の手に小さくキスをした。
「お邪魔したわね。それじゃあ」
やっと吸血鬼は部屋に戻っていった。貴族というのは時間が余るとろくなことをしない。
寝る前にいつも私はとりとめのない思考に頭を動かしている。それはその日読んだ本の内容であったり、自分が生まれた頃のことであったり、百年後の屋敷のことだったりした。そのまとまりない思考が、机上の恋愛問答のせいで愛とか恋のことになっていた。
そして、かなり本質的なその単語群を自分が今まで意識から外していたことに驚かされた。それが形而上的な概念か、あるいはもっとも卑近で俗的な概念かは人によって答えは異なるだろうが、愛とか恋とかいうものは思考のうちでは誰もが通るもののはずだった。
なのに、自分はそれをあたかもないかのように扱っていた。これはどういうことだろうか?
たとえば、今の状況は、客観的に叙述すれば、どうなるのだろう。私たちは「愛し合っている」のだろうか。どうでもいい人間に衣食住を提供するほどレミィは善人ではない。少なくとも私は気に入られているからこそ、ここにいることを許されているのだ。だとしたら、それは愛なのだろうか。仮に愛されているとしよう。しかし、果たして私のほうはレミィに愛など与えているのだろうか? これは一方的にレミィが私を愛しているにすぎないのではないか?
そもそも、私がレミィを愛しているなどと考えたことがあったか?
結論を言えば――ない。
まして、恋うなんてことは決してなかった。
私の横にはいつもレミィがいたから、レミィを求める意味なんてなかった。満ち足りているのに、欲することはできない。
もちろん、私だって古典の時代から恋や愛の物語が無数に作られてきたことくらいは知っている。一目惚れのラブロマンスも、身分違いの悲劇も、愛欲に満ちた物語も、私はいくつも読んできた。
ただし、それでも登場人物が抱いているその感情がどういったものなのか、私にはわからない。まさに知識でしか私は恋や愛を知らないのだ。その点、知恵がないのだ、私には。愛の知恵が。
そこに、とんとんとドアをノックする音が響いた。
誰だろうとベッドから降り、ドアを開けるとレミィが立っていた。
「ねえ、血を吸わせて」
当然の権利のようにそう言った。実際、そうだ。私は所詮ここで飼われているに過ぎない。
「また、唐突ね」
「ええ。貴族というのはいつも気まぐれなものなのよ。久しぶりに貴女の血が吸いたくなったの」
レミィが猫なで声でささやく。私の耳朶がふるふると震える。何が久しぶりだ。四日前にも吸ったじゃないかと思いつつも、私は「好きにして」と答えた。
「ええ、好きにさせてもらうわ」
舌先でいい場所を探し当てると、首元に静かに歯を添わせる。注射のような細い痛みの後に、何かが体から漏れ出ていく感覚がある。それは感覚の閾値にすらまるで届かない小さなもので、快楽とも苦痛とも私は思わなかった。それでも、ずいぶんおいしそうに血を舐めとる彼女の顔は見ていて、悪いものではなかった。
「そんなに血がほしいのなら、ほかの人の血も飲めばいいのに。あなたには門番も使用人もいるじゃないの」
「貴女、吸血鬼のセンスがないわね」
「吸血鬼ではないのだから、仕方ないわ」
「下僕(しもべ)の血なんて飲んだって仕方ないじゃない。あの子たちはもうワタシに従っているんだから」
傷口を舐められると、少しひりひりとしみた。
「まるで血を飲むことで自分の所有物にできるって言ってるみたいね」
「そうよ。本当なら吸血鬼に血を飲まれた者はその吸血鬼の眷属になるの。もっとも、悪魔の貴女には効かないようだけれど」
どこまで本気かわからないが、レミィは残念そうな声を出す。
「レミィの眷属になんてお断りだわ」
「そうね、それじゃ、つまらないものね。では、今度こそ退散するわ」
今日の会話はそこで途切れた。
あるいは続いていたのかもしれないが、私の記憶は眠りの中に抜け落ちてしまっていたのだ。
◆ ◆ ◆
結局、日光浴なんて物好きなことは反故にしてやった。にもかかわらず、私の運動量はそれから数か月で激増することになった。
本泥棒が白昼堂々とやってくるようになったからだ。
その女泥棒はさほど変わったところのない人間の魔法使いだった。言ってみれば、普通の魔法使いだ。白いブラウスの上にいかにも魔法使い然としたサロペットスカートを着て、実用性を無視した大きなとんがった帽子をかぶっている。そして、箒にまたがってやってくるともなれば、時代錯誤もここまでくれば芸術というものだ。
ただ、その魔法使いが発する雰囲気は、魔法使いの既成概念とかけ離れて、粗野で横暴で出鱈目だった。
最初、その泥棒と対面したとき、私は恐れることも怒ることもできなかった。なにせ、魔法使いのほうが泥棒という自覚もないかのように、図書館の大切な稀覯書をがばがばと引っこ抜いていたからだ。自分の帽子をひっくり返すと、袋にでも入れるように高価な書籍を投げ入れていく。
「ちょっと! 何してるの、この泥棒!」
泥棒など生まれてこのかた見たことはなかったが、怒鳴りつけるのが遅れたのは、物珍しさのせいばかりではないだろう。本当に自分が泥棒だと認識してさえいないのかもしれない。
「あ? 泥棒? それは違うぜ」
本を手に持ったまま、魔法使いはこちらを振り返った。もしも閻魔とやらが、この場にいたら、すぐさま「黒っ!」と叫んで舌を抜こうとするだろう。
「まず、その本を放してから言いなさい。それとも虚言癖の症状があるのかしら。ウソをつくならミュンヒハウゼン男爵くらい魅力的なウソをつくことね」
「いやいや、盗むつもりなんてないんだぜ。――――ずっと、一生、借りておくだけだ」
不遜極まりないその一言に理性のタガが外れた。私は夢遊病者のように精霊魔法をその魔法使いに向かって放った。少しは反省するといい。
しかし、その攻撃は敵にまで届かなかった。
「マスタースパークだぜ!」
言うが早いか、魔法使いの発した破格の威力のレーザーが何もかもを呑みこんでいった。私はその一撃で吹き飛ばされてしまった。そんなバカな。人間の魔法使いにしては出来がよすぎる。そんなことを考えながら、私の意識は途絶えた。
目が覚めたとき、魔法使いの顔が目の前にあった。
「わっ! 何のつもり!」
生贄にでもされるのではと私は本気であわてた。
「その言い草はないな」
その黒い魔法使いは心外だと顔をしかめる。見ると、汚い巻き方の包帯がされてあった。この魔法使いの仕業だろう。
「気を失うたぁ、びっくりしたぜ。じゃあな」
魔法使いは飛んでいこうとする。
「あ、こら、そこの黒いの、待ちなさい! 本を返せ!」
「大丈夫、死んだら返す」
にっと男のように笑うと、その魔法使いは箒に乗って、地下の図書館から強引に出て行った。少し天井に頭をぶつけるくらいなんでもないという乱暴さで。
私はしばらく白昼夢を見たように放心していた。何から何まであの黒い魔法使いは理解の範疇を超えていた。善とか悪とかそういった基準の外の存在。
盗まれたものを取り返そうとする活力など私にあるはずもなく、読みかけの魔導書に戻った。世間的に見れば、私は引きこもりと言うらしいが、その言葉は嫌いだ。部屋で過ごすことを何の根拠もなく否定的なイメージで語っているからだ。
夜もだらだらと術式の紋様のページを眺めていると、十二時前にレミィがいつものように現れた。
そこで私はあることに気づいた。
本を盗まれても、何一つ困っていないということに。
どうせ使わないのだ、そんな知識など。
「何か浮かない顔してるわね、いつも以上に」
怪訝そうな顔でレミィがつぶやく。
「むしろ、私が浮かれた顔をしているのを見たことがあるのかしら?」
いつも通り、皮肉で答える。
「今日のパチェは何かおかしいわ。浮かない顔なのは同じだけど。いつものパチェはそもそも何も考えてない。今日のパチェは明後日のことを考えているようだわ」
「ひどく心外な意見ね。もっとも、その観察眼はたいしたものだと誉めてあげるわ」
私にも多少の自覚はある。
「貴女のその科学的態度は称讃に値するわ。それで何か変わったことがあった?」
「そういえば、黒い闖入者が入ってきたわ」
意識していたわけではないが、平常と違うことといえば、それくらいだった。
「黒いの? ゴキブリ? ああ、あの魔法使いのことね」
ずいぶんと屋敷を壊していったわ、と他人事のようにレミィは言った。
「暇つぶしにはちょうどいいんじゃないかしら。タダで曲芸師が来ると思えば悪い気はしないわ」
本当にどうでもよさそうにレミィは言葉を紡ぐ。高貴な吸血鬼にとっては人間なんて、まったくどうでもよいことなのかもしれない。
「私はあまり来てもらいたくないけどね。本というのは春になったらまた生えてくるというものではないのよ」
頭には黒い魔法使いがずっと居座って、裏表のない笑みでふんぞり返っていた。情けない話だが、盗まれた本に書いてあることをすべて足したところで、その小さな襲撃以上に私の心を動かすことはできないようだった。
また、あれが来たら私の心の波紋はいよいよ大きくなってしまうだろう。
しかし、それが翌日にやってくるとは思わなかった。
「よっ。また来たぜ」
罪悪感の欠片も見せない表情で元気よく、その黒い魔法使いは答えた。
「誰も来てくれなんて頼んでないわ」
「魔導書がわたしを呼んでるんだぜ」
「あなた、どこまで自分勝手なの。自分勝手に手足が生えてきたんじゃないかしら。ほんとに盗人猛々しいわ」
「だから盗人じゃねえぜ。一生借りるだけだって」
その魔法使いは自分には収集癖があるとか、聞いてもいないことをべらべらしゃべり出した。その話が終わったかと思うと、魔法の実験に話は移り、それがようやく終わったかと思うと「霧雨魔法店」という店を開いているという話が出てきた。その話でようやく、その黒いのの姓が霧雨だということがわかった。
その魔法使いの名前は霧雨魔理沙。純粋な人間でほかの血はどこにも流れていないということだった。人間であれだけの魔法が使えるとしたら、それは才能としか言いようがない。努力もないことはないだろうが、子供がどれだけ高く飛び上がったところで、尖塔のてっぺんには届くまい。努力というのは、似たレベルの者同士の研鑽においてのみ意義を持つ行為だ。
いつの間にか私は毒気を抜かれて、霧雨魔理沙の話を聞いていた。というよりも、最初からその黒いのには悪意も敵意も何もないのだ。なんとなく楽しそうなものを探してうろつき回っているという風見鶏な生き方。
「お店をやっているのに、昼間からあけていいの?」
「どうせ、誰も来ないぜ。開店休業ってやつだな」
また、うわべも飾りもない表情で黒いのは笑い飛ばす。この人間はネガティブなことさえ、楽しそうに話す。なんでも斜に構えて観察する私から比べれば信じられない性格だ。
「何も仕事がないなんて、いい気なものね」
私はいつもレミィにするように言ってやった。
「じゃあ、お前の仕事は何なんだ?」
さらりと言われて、私はさっと顔を赤らめた。侮辱する意志などこの黒いのにはない。だからこそ、余計に羞恥を覚えた。私は仕事などもっていない。
そもそも、何のために生きているかということすらわかっていない。
漠然と、本のページを繰ることだけを続けているだけ。
「ほっといてほしいわ、そんなこと」
こんなセリフ、レミィに言おうものなら、どうやりこめられるかわかったものではない。そんな無防備な言葉でしか私は反駁できなかった。
「ふうん、まあ、人それぞれだからな」
積み上げられた本の上に座っていた霧雨魔理沙はゆっくりと腰をあげた。
「じゃあ、そろそろ行くかな」
「あ、そうなの。さような――」
その手に数冊の本が見えた。
「――って、待ちなさい!」
また、魔法合戦が図書館で始まることになった。
そんなやりとりはそれから数か月続いた。
魔理沙は相変わらず、隙を見つければ、本をかすめようとするし、私はそれを防ごうとする。そんないたちごっこだった。次第に私も腕をあげて、時には魔理沙を撃退することもあった。もっとも、そうしたところで、私は本を取られないですむだけだが。
ただ、問答無用の争いはなりをひそめ、私たちの遭遇も次第に平和的になってきた。というか、私が慣れただけだ。生物はどんな理不尽な環境にすら順応するらしい。いつのまにか魔理沙の訪問は私の日常になりつつあった。
「また来たぜ」
その日も騒がしく、魔理沙はやってきた。来るなり、そのへんにあった本を広げて読みふける。まるで自分の家かというようなくつろぎようだ。
私も今更追い出す気もしないので、そのまま遊ばせておくことにした。けっこうな数の本が盗まれたはずだが、大図書館はいっこうに本の減った様子を見せなかった。
「あなた、何が楽しくてこんなことしてるの?」
本に目を落としたまま、つぶやく。
「何となく楽しいからやってるんだぜ。楽しくないなら、やらないしな」魔理沙のほうは律儀に目をこちらに向けてくる。視線が寄せられるのがわかる。「パチュリーも本を読むのが楽しいから、ここにいるんだろ?」
「それは……」
即答できなかった。
その時点で、答えは「否」だ。
私はずっとずっと本を読んで暮らしてきた。だけれど、それが面白いのかと問われれば、自信がない。しかし、そもそも楽しくすらなかったとしたら、私は何のために本を読んでいるのだろう。何の目的があるわけでもないのに。
パチュリー・ノーレッジはその知識を何に使うつもりなのか。
自己の認識を客観的事実へとより近づけるため。
数か月前の私なら恥ずかしげもなく、そう答えられたはずだ。
しかし、今の私には、「それに何の意味があるのか?」というその先の質問が待っていた。それはレミィの問答のせいと言えばそれまでだが、ずっと頭から離れないということは自分にも自覚があるのだろう。
そこに、きぃ、と図書館の扉がひらいた。
「お茶をお持ちいたしました」
丁重な言葉遣いで入ってきたのは、この館のメイド長の咲夜だった。彼女がお茶を持って入ってくることはさほど珍しいことではないが、その日は木製のプレート(レミィはあまり銀製品を好まないのだ)にカップが二つ並んでいた。
「あら、どうしてカップが二つあるのかしら?」
「お客様がお見えのようですから」
完爾とした笑みで彼女は答えた。彼女ほどよくできた使用人を私は知らない。ただし、使用人といっても、この屋敷の家政も経済もすべて彼女の意のままではあったが。もし、彼女が主人然とした服を着ようものなら、屋敷中の人間が彼女を新たな主人と認めるのではないかという気さえする。
「おう、ごちそうになるぜ」
厄介人は子供のように気楽に返答する。
ここで茶器を持たせたまま追い返すのも大人げないし、私はテーブルに置かれるプレートを恨めしそうに見た。
「パチュリー様は、お変わりになられましたね」
かすかに表情をゆるめて、咲夜さんは笑う。
「そうかしら? そんなつもりは毛頭ないのだけれど」
「ええ。お気を悪くなさらないで下さいね。ある意味、気持ちを包み隠すのがお下手になられました」
まるでそれが偽りない誉め言葉だとでもいう表情だった。
「それで気を悪くするなというふうが無理だわ」
「ええ、すみません。でも、端から見ているとほっとするんですよ。お茶は出るのにしばらく時間がかかります」
プレートの上の砂時計を彼女はひっくり返した。
「この砂がすべて落ちたら、ちょうどいい塩梅です。パチュリー様、お客様のおもてなし、お願いいたしますね」
そして、咲夜さんは部屋を後にする。。
「あと、それと、お嬢様にも優しくしてあげて下さいね」
母親が娘の友達に語りかけるような言葉を残して。
私の前にはもてあまし気味の茶器がある。お互いに砂時計に目がいく。そのうちに魔理沙と目が合う。そうなると、黙っているのがもどかしくなる。
「じっと見ていても、お茶は早くできないわよ」
「それはお前も同じだぜ」
「私にはあなたをもてなす義務があるのよ。不本意だけど」
「あの、メイド、おっかなかったぜ」
「どこまでも失礼な人ね」
「だって、バックに殺気が漂ってたぜ。絶対、人を殺してるな。そういう勝負師のオーラがある」
案外そうかもという思いもあったので、否定はしなかった。
「あなた、家でお茶は入れるの?」
「お招きにあずかるのはうれしいけど、自分ではやらないぜ。どっちかというと、日本茶のほうが落ち着くしな」
「私はああいう苦いお茶はダメだわ。早摘みで発酵が小さいお茶はダメなの」
「それは人生を半分損してるぜ」
「それはお茶が偉大なのかしら。それとも私の人生の価値が軽すぎるのかしら」
「寒い冬の日にあえて縁側に出て、熱い茶をすする、最高だぜ」
「私にはついていけない発想だわ」
「このお茶菓子、美味いな」
「お茶が入る前に食べるな!」
「お」また、天真爛漫というか天衣無縫というか。「お前もキレることあるんだな」
どうして、この黒いのはこうも邪気のない表情ができるのか!
私は無性にいらいらとしているのに気づいた。
霧雨魔理沙という人間は私の殻を壊す。あるいは溶かすと言ってもいい。霧雨魔理沙と一緒にいると私は変になってしまう!
「お、砂時計が落ちたぜ」
言われて、時計の上側が空になっていることを認識する。
「今、淹れるわ!」
あわててティーカップに手を伸ばす。
「わたしがやるぜ」
魔理沙も手を伸ばす。
その手同士がティーカップのところで触れた。
それは私が魔理沙の手に初めて触れた瞬間だった。
手から走った鋭い痛みを私は感じた。そんなことで痛覚が刺激されるわけもないのだが、私にとって、それは痛みと表現するよりないものだった。
それが胸まで達し、頭にまで届いたから、私は手を離さないといけなかった。
そのせいで、ティーカップに手がぶつかる。ティーカップは傾いて、こぼれてしまう。琥珀色の液体がプレートをひたしていく。
「おいおい、わたしは電気の塊じゃないぜ」
「ごめん……」
私はつい魔理沙に謝罪の言葉までかけてしまっていた。それがまた無性に恥ずかくて。
「もう、帰って」
と私は言った。
「おいおい、まだお菓子は残って――」
「帰って! お願いだから、帰って!」
ダダをこねる子供のように、私は魔理沙を追い出した。
私は直感的に理解していた。主観的な知とでもいうもので。
これが恋なのだと。誰かを恋するということなのだと。
◆ ◆ ◆
あれだけ本を読んでもしっくりこなかったはずだ。私は恋なんてものを知らなかったのだ。知識だけの人形。知識だけを肥大化させて、こんな単純なことにすら到達できていなかった。
実のところ、本が減っても減っても私は何も困ることなどなかった。それは私の一部でもなんでもなく、ただ外にあるだけのものだったからだ。私は本の内容を血にも肉にも変えることはできていなかった。本当に時間を浪費して目を通すだけだった。
ただ、それが恋だとわかっても何も楽しいことなどなかった。心は騒霊に憑かれたようにさざめきたち、短い時間で躁と鬱を繰り返した。本に目をやろうとしても、まるで見たこともない言葉で書かれているみたいに頭に入らない。
とんだ茶番だった。十年や二十年しか生きていない人間の娘なら、まだ話はわかる。でも、私は百年近く生きているのだ。
それから、数日の間、私はずっと暗澹とした思いでいた。猫に襲われ、致命傷を負ったネズミみたいに心がじたばたとあがいた。あがくことで傷が増えることさえしらずに死ぬまで踊り続ける、そんな道化芝居と今の自分は何も変わらなかった。
私がどれだけ変わろうと、レミィは定刻通りに現れた。そして、話題もないのに、いくつかの言葉を交わしてはそのまま去っていったり、血を求めたりする。何の変わり映えもない日々だったが、だからこそ私はレミィの顔を見ると、ほっとした。
その日もレミィはやってきた。太陽が沈んで月が代わりに現れるように。
「読書の調子はどう? 何か感動的な体験はできたかしら?」
「そんなものはないわ。本というのは読めば読むほど、簡単に感動できなくなるの。舌が肥えてしまうから」
「つまり、読書家は不感症なのね」
また、毒のある言葉をさらりと吐く。
だけれど、こんなことを彼女の口から言われるとは思っていなかった。
「こんなに苦しそうな貴女、初めて見たわ」
そんな。
外には何もわからないように取り繕っていたはずなのに。
「まさか。私が苦しむことなんて一つもないわ。ここから出ていけと言われれば、話は別だけど」
顔にいつもの無感動な仮面を貼りつけて、私は応対する。恋心を彼女に知られるのを私は恐れていた。なぜかはわからないが。
「パチェ、ワタシはシェイクスピア時代の演劇を見ているのではないの。わかりやすいウソはちゃんとばれてしまうのよ。愚かで純粋な登場人物のようには振る舞えないの」
どこかたしなめるようにレミィは言った。
「貴女、恋をしているわね。まるで、狼を怖がる少女のような目をしているわ」
後ろからそっと彼女は私の肩に手を置いた。
私は動けずにじっとしていた。
「思索的に振る舞うのは貴女らしいといえばらしいけれど、それだけでは運命の車輪は動き出さないわ。好きならば、好きと相手に告げないと」
レミィはすべてを知っている。私のことなど何もかも見透かされている。
抵抗しても無駄だと思った。
「告白? そんなこと、できるわけないわ」
だいたい、恋していると話して何になるというのだ。それから何を望むのかすら決めてもいない。一緒に館の庭でも歩きませんかと提案するのだろうか。
「奥手なのね」
ふう、とレミィが私の首筋に息を吹きかける。ぞくぞくと毛が逆立つ感触がある。
「だって、私の気持ちは恋をしたということで完結してしまっているんだもの。だから、何かをしたいというものが存在しないの」
「それはおかしな話だわ」と後ろからレミィは私の腰に手をまわしながら言う。「あなたは『恋』の原義は何かを乞うことだと言っていたじゃない。求めるもののない『恋』はありえないはずだわ」
私が求めているもの、その質問は実に難しいものだった。とてもいい答えなど出そうにない。
「しいて言えば、一緒にいたいという感覚かしら」
やっと出た結論に一番驚いたのは私だった。あれだけひどい目に遭っておきながら、いざ会っていれば怒鳴るほどにいらいらさせられておきながら、一緒にいたいだなんてよくも言えたものだ。
一拍の間をおいて、レミィは声をたてて笑い出した。広々とした図書館に声がこだまする。
「ははっ、今日のパチェはかわいいわ。うん、本当にかわいい!」
かわいい、という言葉をレミィは何度も続けた。まるで、何かのおまじないのように。
「それでね、貴女は誰のことが好きなの?」
何か審問のような目。
私は答えることができなかった。
その質問の真意を推し量ることができない。
レミィは最初からすべて知った上で聞いているのではないだろうか? それとも本当にわかっていないのだろうか?
もっとも、どちらでも同じことだった。自分の口から、霧雨魔理沙の名前を出すことはできない。私にできることは沈黙を貫くこと、ただそれだけだ。
レミィは手を離すと、ゆっくりと私の前にまわりこみ、目を合わせてきた。
その真紅に輝く目からは、いかなる感情も読み取ることができなかった。それはすべてを焼き尽くすためだけに存在する地獄の業火を思わせた。目を離すこともできず、その目を見ていると、深い深い瞳の奥の空洞へ、奈落へと引きずりこまれていくような気がした。
私がその吸血鬼にそれほどまでに恐怖を覚えたのは初めてだった。この不遜な吸血鬼は生き物の運命さえもてあそぶと言われているが、なるほど、それもただの噂ではないかもしれない。
「そう、答えたくないの。まあ、いいわ。そんなもの知ってどうにかなるものでもないし」
そして、レミィは私の肩に手を置き、
「それじゃ、今日も血をいただきましょうか」
と、いつも通りの「命令」を告げた。
なのに、そのとき、私は反射的に強い不快感を覚えた。
「――――いやっ!」
虚を突いて生まれた言葉だからこそ、そこには装飾も何もなく、生のままの拒絶であふれていて……。私はレミィを退けた。
レミィの目がまたさっきの奈落の闇へ通じるものへと変わる。
いや、その底には敵意が見て取れた。強い強い殺意の塊に触れた気がした。
あいているほうの手が伸ばされ、私の首を狙う。
じっとしていれば、殺されると思った。
とっさに避けた私は、すぐに精霊魔法の準備を始める。
近距離戦闘に持ちこまれたら、終わりだ。なんとか距離をかせがないと。
が、つかまれていたほうの手で引き寄せられる。あいた左手は呪文をぶつけられる態勢になっている。
瞬時の差で、こちらの精霊魔法が発動した。その勢いでレミィと体が離れる。煙の中、とにかく一歩でも間隔を広げるべきだと本棚の上まで移動する。さて、次は敵はどう動く――――!
煙が晴れた先には、彼女の姿はなかった。
だとしたら、どこに?
頭上に殺気のようなものを感じ、私はすぐに視線をあげる。
まさか、そんなところに動く時間などなかったはず!
その途端、足首をつかまれた。
本棚の下から手が伸びていた。
その時点で私の敗北だった。
一気に引きずり下ろされる。信じられないような力が足にかかる。そのあまりの痛みに自分から足を切り落としたくなるほどだ。
床へと叩きつけられ、仰向けのまま倒される。
その首元に鋭利な爪が突きつけられた。
チェックメイト。
やはり、この吸血鬼は格が違う。
その残虐な瞳は、もう憎悪すら忘れていた。
ただ、破壊と解体を楽しみたいからという表情。
死因は貴族の招きに応じなかったから、と言ったところか。
まあ、やむをえまい。
正直なところ、さほど恐ろしいという気分はなかった。私は自分の死に軽薄なところがあった。この百年、別段楽しいといえるような経験もなかったし、これからもないだろう。私には目的というものがないのだ。だからいつまでも知識のみで知恵という実践がないのだ。存在自体が受動的なのだ。ならばもたらされる死を受け入れることもまた必定ではないか。
なのに、そこにあの黒い魔法使いの屈託を知らない笑みが脳裏をよぎる。
その表情は実に澄んでいた。澄みきっていた。
そういえば、なぜあの魔法使いは図書館に来たのか。本をもらうという目的のためだ。
霧雨魔理沙は目的だけで生きている。
何もかも私と対照的な生き方。
そんな水と油の存在が馴れ合えるわけがない。
なのに、私はこの期に及んで願ってしまったのだ。
――会いたい、と。
無目的なこの生の最初の目的に、霧雨魔理沙と会うためという一条を入れてみよう。
そんなもの、明日にはかなってしまうかもしれない。なら、もう一度、魔理沙に会うことを目的にして生きていけばいい。それがかなえば、またもう一度。
なんて、くだらないちっぽけな目標だ。笑ってしまう。凡人も凡人のせせこましい生き方。
でも、そんなことでいいんだ。
生きることに壮大な夢も計画も必要などないのだ。ただ、明日を心待ちにして今日を生きていけるだけのものがあれば。
そんな簡単なことを死ぬ間際に気づくなんて、どれほど滑稽な話なのだろう。
さあ、その爪で心臓をえぐりとって頂戴。この世に何の未練も残せないくらいに。
「……や~めたっと」
唐突にレミィの手がどけられた。彼女は後ろを向いて、ぱんぱんとドレスのホコリをはたく。貴族の気分でその戦闘は終了した。
「ほら、早く立ちなさいよ。もう、何もしないから」
私はおずおずと立ち上がり、同じようにホコリを払った。
「ったく、そんな目を見せられたらたまらないわ。貴女は本当に恋に一途ね。学者先生は春を知らず、か。どれだけ、あの魔法使いのことが好きなのよ」
すぐに顔が赤くなった。ばれていた。当然のように。
「知っていたのね」
「言わずもがなよ。来客嫌いの貴女が出会う頭数なんて、手の指だけでおつりが来るわ。その中でココ最近、貴女に影響を与えてるとしたら、黒の魔法使いしかいないじゃない」
言われてみればその通りで、状況証拠だけで、誰だって答えにたどりつけるのだ。
「今夜はもういいわ。今の運動で疲れたし、興趣もそがれたわ。それに寝首をかかれたら、スカーレット家の笑い者だし」
彼女はさばさばとした顔で言ったが、まだ、どこかためらいがあるように見えた。
「申し訳ないわ。でも、私はとても怖くなったの。今までの私はレミィに何の感慨もなく、血を吸わせていた。それは私が恋を知らない人形だったからよ。だけど、今の私には、それができない。私が恋しているのは、残念ながらあの黒いのだわ。それがわかっていながら、レミィと過ごすのはとても不誠実な気がしたの。それがレミィへの裏切りになるような気がしたの」
上手く言葉にならなかったが、私は必死に話した。言葉を紡いだ。
そして、話せば話すほど、私がレミィのことを恋の対象にできていなかったことに気づくのだ。少なくとも、私はレミィを乞い求めたことなど一度もない。
「要約すると、好きでもないのに体を使って遊ぶというのは、やめないかというわけね」
レミィの声にはトゲがあったが、答えに異を唱える気にもならなかった。
「ええ、そういうことだと思うわ。恋というのは血を、体を求めることとは違うと思うの」
「ふざけないで!」
大きな叫びが図書館を満たした。
「どうしてそんなこと言うの? ワタシだってパチェの心を引きつけたかったわ! そのためにどれだけの努力をしたか! でも、貴女は一度もワタシに心をひらかなかった。だから、貴女の血を愛したの。何度も何度も何度も。何年も何十年も何百年も。貴女がワタシを好きになってくれるように、愛してくれるように。でも、貴女はいつまで経っても人形のままだった。つまらなさげな顔で冷めている人形だった。貴女が心で愛してくれれば、ワタシだってこんなことをする必要だってなかったわよっ!」
その表情にはいつも貴族の余裕はどこにもなかった。等身大の少女のままのレミィだけがそこにいた。
「それでもワタシは満足だったわ。人形の貴女を自由にできるのは自分だけだったから。なのに、横から入って来た変な魔法使いに貴女をさらわれていくなんて、そんなふざけた話があると思う!?」
レミィは泣いていた。
あの驕慢で尊大なレミィがぼろぼろと涙をこぼしていた。
それは間違いなく私が初めて見たレミィの涙だった。
「貴女の定義によれば、ワタシは貴女を愛していたんだと思うの。角砂糖を口で転がすみたいに、大切に、大切にいつくしんでいたわ。今にして思えば本当に愛って一方的なものね。貴女の解釈は慧眼だわ」
どうして、今まで気づいてあげられなかったのだろう。
レミィは心底から私のことを求めてくれていたのだ。そこに不純なものなど何もなかったのだ。
恋も愛も知らなかった私は、それを認識できなかった。自分が恋という感情に気づくまで。
「ワタシ、何度も貴女の血を吸ったわよね。やろうと思えば、貴女を眷属にすることだって訳なかったのよ。でも、ワタシはそんなずるいことをしなかった。そんな情けない真似はしたくなかった。好きな相手の愛くらい、自分で勝ち取りたかった。なのに、人間の魔法使いに貴女を奪われるなんて、とんだ笑い話だわ!」
慰めなければと思った。でも、どうやってレミィを慰めればいいのかわからなかった。そんなもの、どの物の本にも載っていない。
だから、私は両手で彼女を包むことにしたのだ。ほかに何も持っていなかったから。
「わかってるじゃない……。それでいいのよ」
泣きながら、レミィは笑った。
そうか、体というのは相手を包むためにあるのだ。これほどまでに直接的で明快な感情表現はない。そんなことにも、私の自己認識は到達していなかった。本当に学者バカだ。
「さっき、ワタシね、貴女の足を潰してやろうと思ったの」
いたずらっぽく、彼女は笑う。もっとも、それは涙のせいでおかしなものになってしまったが。
「だって、パチェの足が壊れれば、ずっと一緒にいられると思ったから」
「ごめんね」
そう告げるのが私にとって最大の誠意だった。
「ええ。赦してあげる。その代わり、命令ね。この屋敷から勝手に出て行かないこと。貴女はいつまでもワタシのそばにいて。この世に永遠なんてものはないわ。今は無理でも百年後、五百年後には貴女はワタシに恋するようになるかもしれないから」
◆ ◆ ◆
あれから一か月、図書館は前と比べると人口密度があがった。
本棚の前では、あの黒いのが本を読んでいる。
そして、私の前ではどこからか引っ張り出してきたテーブルで、館の主が血の入ったアフタヌーン・ティーを賞味している。その横には、最高位の使用人が静かに控えている。
「こう、人が多くてはおちおち読書もできないわ」
私はため息をついて、主に愚痴をこぼす。
「別にいいじゃない」
と主は言う。
「そんな本より、人付き合いのほうが何百倍も学べるものが多いのだから」
End
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