どもども、森田です。
たまに、「うちの地域は寺めぐりしないのですか?」というご質問を受けます(本当に受けます)。ぶっちゃけ行ける範囲であれば片っ端から行くつもりでいます。ただ、まだ未踏の場所がたくさんあるので、ちょっとずつ開拓してます。
なお、ブログ更新ペース的にかなりタイムラグが空いているので、関東のほうの寺社がまだノーマークですが、すでにいろいろとまわっているので、そのうち移ると思います。お待ち下さい。
今回は室町時代からの寺内町、富田をまわります。

本照寺の本堂です。
室町時代の1427年(応永34年)、本願寺第7代法主存如(蓮如の父)により建立(ウィキより引用)されたのがはじまりで、まあ、寺内町の形成の中核となった寺院です。戦国時代の政治史と富田は密接にかかわっていますが、武田信玄とかその手の有名人とはあんまり関係ない話なので、興味ある人はあんまりいないかも・・・。

近くにある三輪神社へ。この奥に次の目的地の普門寺があります。

ある意味、わかりやすい写真。
さて、寺の沿革を説明するのが難しいので、またウィキを引用します。
この寺は、1390年(明徳元年)設巌の開山により創建されたと伝えられ、その後一旦は荒廃となったようである。
しかし、永禄4年(1561年)に元管領・細川晴元を隠居させるため城郭として築城され(三好氏ではないかと言われている)、出家してこの寺に隠棲している。この頃の普門寺は「普門寺城」と呼ばれ、この時に中興したと思われている。管領晴元や14代将軍足利義栄の居城となり、境内には塔堂伽藍が立ち並び、巨刹であったと伝えられる。晴元没後の永禄9年(1566年)には三好三人衆に擁立された足利義栄が入り、ここで宣下式を行い征夷大将軍に就任している。
つまり、足利義栄はここで将軍になったというわけです。将軍が誕生した寺というのは滅多にないのではないでしょうか。なお、織田信長が京都に入ってきて、義栄はここから四国へ脱出してます。

細川晴元の墓と言われている宝篋印塔。この寺自体が引退した晴元生活の場だったらしいので、ある意味あって当然かもしれません。晴元の没落以降、細川宗家はずっとぱっとしないまま、歴史の表舞台からは消滅していきました。

重文の方丈。

さて、このあたりは寺内町の名残なのか、堀の跡のような池がぽつぽつあります。撮影し忘れたのでないですけど・・・。
あと、富田は江戸時代初期ぐらいまで酒造でかなり栄えた土地で、いまだに酒蔵があります。

杉玉がかかっているので、酒屋だと一発でわかりますね。
その他、蓮如創建といわれている教行寺などがありますが、写真としては普通なので割愛します。
説明が難しいですが、というか歴史の話に結局なってしまうのですが、戦国時代の畿内の混乱がいろいろと感じられるのが富田です。阪急富田駅から簡単に歩いていけるので、関西の人はどうぞ。
たまに、「うちの地域は寺めぐりしないのですか?」というご質問を受けます(本当に受けます)。ぶっちゃけ行ける範囲であれば片っ端から行くつもりでいます。ただ、まだ未踏の場所がたくさんあるので、ちょっとずつ開拓してます。
なお、ブログ更新ペース的にかなりタイムラグが空いているので、関東のほうの寺社がまだノーマークですが、すでにいろいろとまわっているので、そのうち移ると思います。お待ち下さい。
今回は室町時代からの寺内町、富田をまわります。

本照寺の本堂です。
室町時代の1427年(応永34年)、本願寺第7代法主存如(蓮如の父)により建立(ウィキより引用)されたのがはじまりで、まあ、寺内町の形成の中核となった寺院です。戦国時代の政治史と富田は密接にかかわっていますが、武田信玄とかその手の有名人とはあんまり関係ない話なので、興味ある人はあんまりいないかも・・・。

近くにある三輪神社へ。この奥に次の目的地の普門寺があります。

ある意味、わかりやすい写真。
さて、寺の沿革を説明するのが難しいので、またウィキを引用します。
この寺は、1390年(明徳元年)設巌の開山により創建されたと伝えられ、その後一旦は荒廃となったようである。
しかし、永禄4年(1561年)に元管領・細川晴元を隠居させるため城郭として築城され(三好氏ではないかと言われている)、出家してこの寺に隠棲している。この頃の普門寺は「普門寺城」と呼ばれ、この時に中興したと思われている。管領晴元や14代将軍足利義栄の居城となり、境内には塔堂伽藍が立ち並び、巨刹であったと伝えられる。晴元没後の永禄9年(1566年)には三好三人衆に擁立された足利義栄が入り、ここで宣下式を行い征夷大将軍に就任している。
つまり、足利義栄はここで将軍になったというわけです。将軍が誕生した寺というのは滅多にないのではないでしょうか。なお、織田信長が京都に入ってきて、義栄はここから四国へ脱出してます。

細川晴元の墓と言われている宝篋印塔。この寺自体が引退した晴元生活の場だったらしいので、ある意味あって当然かもしれません。晴元の没落以降、細川宗家はずっとぱっとしないまま、歴史の表舞台からは消滅していきました。

重文の方丈。

さて、このあたりは寺内町の名残なのか、堀の跡のような池がぽつぽつあります。撮影し忘れたのでないですけど・・・。
あと、富田は江戸時代初期ぐらいまで酒造でかなり栄えた土地で、いまだに酒蔵があります。

杉玉がかかっているので、酒屋だと一発でわかりますね。
その他、蓮如創建といわれている教行寺などがありますが、写真としては普通なので割愛します。
説明が難しいですが、というか歴史の話に結局なってしまうのですが、戦国時代の畿内の混乱がいろいろと感じられるのが富田です。阪急富田駅から簡単に歩いていけるので、関西の人はどうぞ。
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